今回は、すこし横道にそれますが前回の記事に貼り付けしたアイキャッチ画像について説明します。撮影時期と場所は不明ですが明治時代から昭和にかけての女子学生の服装の変遷がハッキリわかる貴重な写真です。
写真は「那覇百年のあゆみ、那覇市企画部市史編集室、昭和55年刊行」から抜粋したもので、写真右から順に明治→大正→昭和の順になっています。「那覇市百年のあゆみ」の説明文を参考に女生徒の服装の移り変わりを説明します。
一番右側の女性は明治31(1898)年ごろと推定されます。明治29(1896)年に女子講習科(女子教員養成のための高等学校)が設立され、その2年後には第一回の卒業生を輩出した件は前回記載しました。その当時に通学していた女生徒の服装になります。琉装に結髪(ウチナーカラジ)がよく似合う精悍な顔つきが印象的です。
二番目の女性は明治34(1901)年ごろです。明治32(1899)年、前述した女性訓導の久場ツルさんが沖縄県人の女性で初めて和装をしてから数年後には高等教育を受ける女生徒にも和服姿が見られるようになります。ただし画像で見た限りでは帯を締めただけで、髪型も結髪(ウチナーカラジ)の和琉折衷姿と云えます。
中央の女生徒は明治37(1904)年ごろから大正初期(1912~)の服装です。エビ茶色の袴の着用と、髪型も当時流行した203高地髷に変わっています。この頃から和装がスタンダードになりつつあることが分かります。
左から二番目の女生徒は大正時代全般の服装で、和服に袴を改良したブルマ型です。この服装は従来の袴に比べると活発に動きやすいのが特徴です。髪型もおさげに変わっています。
一番左側の女生徒はセーラー服で、髪型もショートカットになっています。セーラー服は昭和2(1927)年に沖縄県立女子師範学校の女生徒が5月17日の波之上祭りに合わせて一斉着用したのが始まりで、まもなく沖縄県女学校に広まることになります。(制服の洋服化は大正11(1922)年、首里市立女子工芸学校が最初に導入します)
わずか30年の間で女生徒の服装や髪型が大きく変わったことは、琉球王国時代を振り返ると奇跡と云っても過言ではありません。大日本帝国時代の沖縄社会の移り変わりには本当に驚くばかりですが、現代の歴史教育では「ヤマト化」と称して一元的にしか取扱いされていません。極めて残念と言うほかありません。
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