前回ハジチの慣習が廃れた理由の一つに明治32(1899)年に施行された入墨禁止令がきっかけで沖縄県内からハジチセークが激減したことを挙げました。今回はもう一つの理由として女子教育の普及について述べます。
沖縄における女子教育は男性に比べるとだいぶ遅れてスタートします。ブログ主が確認できた最初の記録は明治19(1885)年に那覇市西町にあった師範学校付属小学校に女性徒3名が入学した件です。(那覇百年の歩み、那覇市企画部史編集室、昭和55年発行より確認)
廃藩置県後は女子に限らず男子の就学率も非常に低かったのですが、日清・日露の2大戦役に日本が勝利することで就学率が激増します。大正期に入ると男女ともに小学校の就学率が90㌫を超えるようになり、教育の普及が完全に軌道にのります。
注目すべきは大正時代になって、沖縄県民から女性教員(訓導)を安定的に供給できるようになったことです。明治29(1896)年に沖縄師範学校内に女子講習科が設立され、ここに女子の高等教育機関がスタートします。女子講習科は大正4(1915)年に県女子師範学校として独立しますが、それまでに講習科を卒業した女性徒が県内の小学校で女性教員(訓導)として就任して、女子教育の発展に尽力することになります。
大日本帝国時代の小学校の教員は地域の父兄から大変尊敬される存在でした。とくに女子教員は地域の女性たちの良き相談相手になります。これまでの沖縄社会において女性の相談相手は古老か、神女か、あるいは後述するユタに限られていましたので、女性教員の登場は地域共同体の女性たちに大きな衝撃をもたらします。
女子教員たちは軒並み旧慣には否定的で、彼女らに感化された女子たちがその後小学校のみならず高等教育を受けることによって風俗改良運動に積極的に取り組むようになります。その結果ハジチなどの旧慣は昭和の時代になると完全に廃れてしまうのです。
ちなみに明治29(1896)年に誕生した女子講習科は明治31(1898)年に初めて10名の卒業生を輩出します。10名の卒業生のうち9名は県外人ですが1人だけ沖縄県人がいます。その人物の名前を知っている人はよほどのマニアですが、
その名は首里出身の久場ツルさん(1881~1943)で、実は彼女が琉球・沖縄の歴史で文字が読めることが史料ベースで確認できる最初の女性です。
彼女は講習科卒業後に首里尋常小学校(現城西小学校)に女性訓導として勤務することになります。ブログ主は琉球・沖縄の歴史で最も偉大な女性は彼女しかいないと断言しますが、彼女の偉大な軌跡は後日記事にする予定です。(続く)
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