琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その12

沖縄本島のハジチ

現代の沖縄県の女性の手の甲は真っ白です。ハジチの慣習は前述した通り大正終わりから昭和にかけて廃れますが、この慣習はアメリカ軍の占領行政時代にも復活しませんでした。この件は沖縄の女性史を考察するうえで極めて重要なので詳しく述べたいと思います。

アメリカ世(アメリカユー)になって復活した(女性の)慣習は多々あります。代表的なのが浜下りですが、神女(ノロ)の年中行事や後述するユタやユタコーヤー(ユタ買い)も復活します。逆に復活しなかった慣習にモーアシビー(毛遊び)とハジチがあります。モーアシビーに関しては今回は取り上げませんがハジチの慣習は何故復活しなかったのでしょうか?

明治時代に来琉した日本人たちは一様に琉球女性のハジチに対して嫌悪感を露わにしています。前回取り上げた河原田盛美氏の琉球紀行の一文が良い例ですが、彼らはハジチに対して「未開の慣習」として捉えて、この悪慣習は廃止すべきと考えます。

実際にハジチは身体的負担が極めて大きいのです。幼児の段階から手の甲に針突きを行ますが、その際の激痛は堪えがたいものがありますし、針突きを行った後の数日間は痛みに苦しむことになります。針突きは専門家(ハジチセーク*)に依頼するのが一般的でしたが(地方によってはハジチセークはいなかった)、その際の金銭的負担もバカになりません。当然衛生面でも問題あり*で、針の消毒方法や施術後の処置を誤ると腕に障害が残る可能性もあります。明治時代の日本人あるいは現代人の目から見ると問題ありありの旧慣で、何としても廃止しなければならないと認識するのも当然なのです。

*近代にはいると針突きを専業とする者がいて、沖縄ではこれをハジチセークあるいはハジチャーと呼び、主に女性であった。施術者は泡盛で墨をすり、模様を描いてから針に墨をつけてつついたという。施術部位に応じて縫い針を3本ないし25本束ねたものを用いた。農村では農閑期に施行した。(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社、1983年刊行、イレズミの項目より) 

*施術の方法は、針突師の膝の上に手を乗せ長さ20センチほど、厚さ3ミリ、幅2ミリほどの竹の先を針状にしたものを5,6本、糸で固定、それに墨を含ませて、まず右手の親指(ウフイービ)、人差し指(サシイービ)、中指(ナカイービ)、薬指(アシイービ)、小指(イービングァ)、そして手の甲の順に墨を入れた。そのデザインは時代や身分によっても異なったのはくりかえし言うまでもない。 針突きの所要時間は存外に短く、3~4時間。術後はトーヌカシー(おから)で突き跡を洗い、痛さと腫れを退かせたようだ。このあたりが民間療法の妙味というところである。(週刊上原直彦、エッセイ「浮世真ん中」の針突き・ハジチより抜粋) 

1899年(明治32)に入墨禁止令が施行されます。入墨は野蛮な慣習として国法で禁止しますが、当時の沖縄県では逆に「幼少の頃からハジチを施しておけば大丈夫」という考えから幼女のうちから入れ墨を行う無茶が横行します*。いかに伝統主義の縛りが強固かがこのエピソードでお分かりでしょう。ただしこの禁止令は徐々に効果を発揮します。理由は禁止令によって針突きの専門家(ハジチセーク)の技術が継承されにくい社会環境になったためにハジチセークが激減したのです。その結果としてハジチの慣習も廃れていくのです。(続く)

*ハジチの慣習における最初の針突きは6歳ごろからで、針突きの回数は1年に1回程度です。ハジチは時間をかけて針突きを行い紋様を整えて、15~24歳前後で完成させるのが一般的でした。完成までに時間をかけた理由は身体的負担が大きいからで、幼女のうちに一気に行うのは惨いの一言です。