前回は都市部の士族たちの教育システムや講義内容について記載しました。では人口の多数を占める農村部はどのような教育事情だったのでしょうか。
琉球王国時代は士族は都市に、百姓は農村に住むよう規制されていました。学問は士族の特権で百姓たちは教育をうける機会が全くと言っていいほどありませんでした。例外は以前の記事で紹介した奉公人の階級です(琉球藩の時代 その18参照)。
琉球王府が間切(あるいは村)に発行する辞令書には和文が使われていました。奉公人に採用されると13歳から間切内の地頭御殿(そのなかに筆算稽古所があった)に勤務しながら和文の読み書きを学びます。ただし奉公人になる資格は男性のみで女性はまったく採用されませんでした*。
*ブログ主が確認した限り女性の奉公人は一人もいません。
その代り女性たちは貴賤問わず織機を扱うことができました。衣類の仕立ては女性の大切な役目だったからです。事実大正時代まで農村部の百姓たちは衣類を自前で仕立てていました。ただし大正末から昭和に入ると本土より衣類(洋服、生地)の移入が急増します。この現象は女子の識字率が上昇した代わりに女性たちが織機を扱うことができなくなったことを意味します。
*昭和にはいると小学校の就学率は男女100%近い数値で、かつ女子の高等学校も設立され女子教育が充実します。この時代の女子の憧れは高等学校に進学してセーラー服を着ることでした。
少し話がそれましたが、現代の女性と違って琉球王国(あるいは琉球藩)の時代の女性たちは教育を受ける機会もなく、文字の読み書きができないことが当たり前の環境に置かれていました。そのことに対して何ら疑問を持つことなく日々の生活を送っていたわけですが、やはり女性を学問の世界から遠ざけた弊害は無視できないものがあったのです(続く)。