過去のブログを総点検している際に、現在連載している「誤解だらけの琉球藩の時代」の前の「琉球・沖縄の歴史の個人的な謎」で近代にいたるまで女性が文字を読めなかった件を記事にアップしていないことに気が付きました。琉球藩の時代で当時の政治・社会情勢についてある程度詳しく記載しましたので、ここで琉球王国時代に女性が文字を読めなかった件をアップします。この記事は是非女性の読者に読んでいただきたいです。
1872年(明治5)に琉球王朝が琉球藩に鞍替えした際に、現在の那覇市西町に設置されていた(旧薩摩藩の)在番奉行所を明治政府は外務省出張所として利用します。そして政府側から伊地知貞馨、奈良原幸五郎をはじめ役人を派遣して琉球藩庁の為政者たちとの折衝を行います。
その時来琉した知識人で農学者の河原田盛美氏(1842~1914)が当時の琉球社会の様子を記述した著書を刊行しています。その著書「琉球紀行」のなかに「琉地曾て女子に学問を為さしめず。その蕃たる大甚し」との記載があります。河原田氏が来琉したのは1875年(明治8)ですから、当時の琉球藩内の女性は文字が読めなかったことになります。
この見解は川原田盛美氏だけに限らず、伊地知貞馨氏*もその著書「沖縄志略」で同様の見解を述べていますし、伊波普猷氏*も「沖縄女性史」で同じことを記述しています。特に伊波普猷氏はご自身が士族の出身で、沖縄県立図書館勤務時に精力的に古文書の収集・解説に努めた方ですので、その記述には信憑性があります。
*婦人は紡織に従事し、曾て字を知る者なし、布帛諸品を売買するは、皆女子なり、算法を知らず、縄を結びて符とし、数万貫の銭、即ち算了し、錙銖(ししゅ)を差らず、積年小銅銭の行使に慣れ、遽かに金銀楮幣を施し難きの勢いあり(沖縄志略より)。
*しかし一木氏がいはれた通り、上流階級の女子に至っては、深窓の下で起臥して、外出することが稀で、その上教育もなく、手芸も無かった為に、多情多感なる男子に満足を與えることが出来なかった(沖縄女性史より)。
琉球の歴史上で1879年(明治12)までに確実に文字が読めた女性は、よくよく考えると本当にいないのです。オギヤカもモモトフミアガリも、歌人ヨシヤも恩納ナベも文字が読めた確証がありません。歴代の聞得大君も文字の読み書きができたか定かではないのです。
では、琉球・沖縄の歴史で確実に文字の読み書きができた女性は誰か?との質問に即答できる歴史家はほとんどいないでしょう。正解は後から述べるとして、今回は琉球・沖縄の歴史上でなぜ女子が文字の読み書きができなかったかを考察します(続く)。