
前回アップした記事「又吉世喜さんについて知っていること。」に関し、今回は裏付け史料を公開します。又吉に関してはブログ主が所持する史料から昭和38年(1963)までは正確に追跡できるので、数多くの史料から彼の “実像” に迫る内容のものを厳選して公開します。
・昭和37年(1962)1月18日早朝、琉球警察は又吉宅に踏み込むが、ブログ主が確認した限り「又吉世喜」の名がこのとき始めて新聞に登場した(昭和37年1月18日付琉球新報夕刊03面)。
これは那覇署がコザ派と那覇派が同年同月15日、西原飛行場で “出入りする” との情報に端を発し、同署が18日午前又吉宅を家宅捜索した流れですが、記者会見の場において幸地警本部長が那覇のボスとして「又吉世喜」と明言しています。それ故にこの報道をキッカケに、「又吉世喜」の名が世間に知れ渡った可能性が極めて高いです。
なお、「寝込み襲い」との題字に “昭和” を実感します。
両暴力団の今後の処置は?
答え 凶器を持っていた者は銃砲刀剣類不当所持で調べ、さらに子どもたちの傷害、脅しなどの事実をつきとめ徹底的に検挙する。
ー 家宅捜索したのは誰の家か
答え 那覇のボスである市内壺屋町の又吉世喜(28)宅を襲い、寝ていた子分たちのドスを押収した。またコザではコザのボス、喜舎場と玉城ら3カ所を捜索してサイを押収した。コザでは傷害の疑いであと4~5人を逮捕する積りだ。
ー この出入りの原因は?
答え 情報によれば又吉がコザの勢力にくわれているうえ、コザの暴力団から子分が時にいためつけられているようで、その勢力ばん回の決闘申し込みだったらしい。15日午前零時を期し西原飛行場で立ち会うことになっていた。
ー この暴力団はどの様にして生計をたてているのか。
答え 十貫瀬、ハーバービュー、コザ吉原の特飲街、遊技場やバーなどの用心棒をして月ぎめの手当をもらってやっている。
ー この人たちが用心棒を雇わなければ暴力はなくなるのではないか
答え 雇わないといやがらせなどして営業妨害するようだ。警察にとどければお礼まいりで暴力をふるうといって泣き寝入りしている現状だ。暴力を一掃するためには一般の協力がなければだめだ。警察も被害者の身辺は十分まもる。(昭和37年1月18日付琉球新報夕刊03面)
ちなみに15日の西原飛行場での立会いについては裏付けが取れてませんが、関連記事は以下ご参照ください。
暴力団の対決防ぐ / 那覇署 / 情報つかみ非常警戒
16日夜、那覇市内でコザの暴力団と那覇の暴力団の大がかりな出入りがあるとの情報を那覇署がキャッチ、同署は全刑事を非常招集するとともに、警本の全パトロールカーの応援を得て、徹夜で警備に当たってこのヤクザの出入りをくい止めた。
那覇署のつかんだ情報では那覇市内の有力な暴力団が、コザ市内の同組織に勢力を奪われているのでそのアダ討ちのための果し合いで以前からくすぶりつづいているという。
このケンカは15日夜も西原飛行場で行われるとの情報で、警本機動隊も出動したが、この日も音沙汰なく、さらに16日はかなり悪化して激突寸前だといい、警察はかなり緊張して夜通し警備に当たった。この日はそれぞれ10人ぐらいが対決するのではないかと見られていた、またコザ署も全署員を非常招集、警戒に当たった。(昭和37年1月17日付琉球新報夕刊03面)
・同年1月25日付琉球新報夕刊3面で、壼屋の又吉宅(当時)の写真が新聞に掲載される。
15日の西原飛行場の件は不正確な情報と思われますが、16日の「かなり悪化して激突寸前」には、同日の又吉宅における監禁事件のことで、壼屋の自宅写真は以下ご参照ください。なお多和田真山が当時栄町に住んでいたことも確認できた貴重な記事です。
ちなみに又吉の自宅の場所は、当時の栄町、ハーバービュー通り、神里原や十貫瀬など(当時の)盛り場にアクセスしやすい立地であり、実際に現場を訪れたブログ主も、彼がここに居住していたのかすぐに納得できました。(続く)
又吉の自宅を検証 – コザ署 不法監禁の裏付けに
暴力団の追求を進めているコザ署は二十五日午前十時すぎから暴力団那覇派のボス宅市内壷屋町一四一、又吉世喜(二九)の自宅で、監禁の現場検証を行なった。これはさる十六日午前十一時ごろ、コザ派の那覇市栄町七一、多和田真山(二九)、同安里一区六班福田勝(三〇)、同大道四班、仲宗根光男(二七)の三人を、仲間に入れるため又吉の家に連れ込み七時間余り監禁して脅迫したというもの。監禁された部屋は又吉の本宅の隣りにあって一㍍ぐらいの出入口が一つしかない十五平方㍍ぐらいの部屋。現場検証には監禁された多和田、福田、仲宗根の三人が立ち会ったが、ボスの居なくなった又吉の家には相変わらず子分七、八人がゴロつき、現場検証を無表情でながめていた。(昭和37年1月25日付琉球新報夕刊3面)