ご存じのとおり、今年は昭和に換算すると100年の節目ですが、”スター” こと又吉世喜さん(1933~1975)がお亡くなりになって50年目であることを知る人は少ないかと思われます。そこで節目の年の企画として、又吉(以下敬称略)に関するまとめページ作成を思いつきました。
思いついたもう一つ理由は、過去にアップした記事や蒐集した史料が多くなりすぎて整理する必要に迫られたからです。それ故に既出ネタも含めた又吉世喜の履歴を大雑把にまとめてみました。なお、新情報が入り次第加筆・修正していく予定です。読者の皆様、是非ご参照ください。
・「(中略)こうした間隙を縫つて登場したのが、戦後派のスターである。いつの間にかグループが次第に大きくなり、6年前、23歳の若さで遂に那覇の夜の実権をにぎる文字通りスターにのし上った。(縄張り “暁”に死す「月刊沖縄」)」との記述があるが、彼の存在は、通称スターであることも含めて昭和32年(1957)年1月の新聞(琉球新報・沖縄タイムス)で裏付けが取れている。
・ただし、新聞史料によると、又吉は「那覇市牧志在国際遊技場用心棒」となっている。
・「スターとは彼の通称シターがなまつたものだが(縄張り “暁”に死す「月刊沖縄」)」とあるが、これは裏が取れていない。
・昭和36年(1961)9月9日のコザ派による又吉リンチ事件を琉球警察は把握しており、警察としても各地の “暴力団” の実態を把握する必要に迫られていた(昭和36年10月11日付琉球新報朝刊07面)。
・昭和37年(1962)1月18日早朝、琉球警察は又吉宅に踏み込むが、ブログ主が確認した限り「又吉世喜」の名がこのとき始めて新聞に登場した(昭和37年1月18日付琉球新報夕刊03面)。なお、同年1月22日に再度家宅捜索され又吉は逮捕されたが、同日の夕刊には又吉宅が「暴力団の巣」と紹介されていた。
・ちなみに又吉と一緒に逮捕された中に、喜屋武盛一(後の泡瀬派)がいた。
・「(1月22日の家宅捜索時の)逮捕状によると同人(又吉)らは、コザの暴力団一派と勢力拡張あらそいをしているが、その手段としてコザ派の那覇市栄町71、多和田真山(29)、同安里1区6班福田勝(30)、同大道4班、仲宗根光男(27)らを仲間に入れようと、この16日午前11時ごろ3人を又吉宅に連れ込み、仲間に入らないと那覇では仕事が出来ないし、コザに行けばダイナマイトで砕くなどと脅迫、同日午後6時ごろまで監禁したもの。(昭和37年1月23日付琉球新報朝刊7面)」とあるが、実は多和田真山が始めて沖縄マスコミに登場した記事である。
・余談になるが、ブログ主はこれら一連の新聞史料で初めて新垣淑重那覇署長の存在を知る。
・同年1月25日付琉球新報朝刊7面によると、新城喜史(当時コザ派)が西原飛行場での又吉リンチ事件の “主犯” として全琉指名手配されたとあるが、同事件が公になったのはこの記事が始めてである。
・同年1月25日付琉球新報夕刊3面で、壼屋の又吉宅(当時)の写真が新聞に掲載される。
・同年1月27日付琉球新報夕刊3面によると、又吉の一派として田場盛孝(34)の名前が始めて新聞に掲載される。
・沖縄人権協会の(初代)会長である下地俊之氏が那覇派の顧問弁護士との理由で辞意を表明(ただし協会は「辞意の理由にならない」との意見で一致し、下地理事長に留任を申し入れ。後に本人も辞意撤回)。
・昭和37年4月20日付琉球新報朝刊7面によると、脅迫の疑いで又吉世隆(砂販売業者)が逮捕されたとの記事が掲載されているが、彼は又吉世喜の弟で、後に(あいさつ100回で有名な)三和交通の社長になった人物でもある。
・昭和37年4月24日未明、コザ派の6~7人が壼屋の又吉宅にカチコミをかけ、玄関ガラス戸を叩き壊す。
・昭和37年4月28日昼、那覇派とコザ派は那覇市波の上の料亭 “ひさご” で手打ちの宴会を開く。なお同月30日の琉球新報朝刊7面によると、
コザ派のリーダー・喜舎場朝信さんの話 きのう(28日)那覇とも話し合って和解した。われわれ同志の争いで一般の住民に迷惑をかけたことを心からおわびします。今後はこんな争いは絶対に起こさないようにつとめます。
とあるが(以下自粛)。