りうきうの自警団

(続き)今回は昭和40年(1965)4月16日、勝連松島料亭街で起こった殺人事件に関して、ちょうどいい機会なのでアメリカ世時代の「自警団」について言及します。

ブログ主が確認した限り自警団の歴史は昭和25年(1950)ごろからになりますが、設立されて理由はいたって簡単で「警察の抑止力には限界がある」からです。というのも警察力は “トラブルが起こった後(事件性がある案件)” には威力を発揮しますが、”トラブルが起こる前(事件性がない、あるいは薄い)” については案外無力なのです。

当時のアシバー関連の記事をチェックして痛感したのが、盛り場などの現場の声と警察当局との “すれ違い” です。大まかに説明すると、警察としては「どんな小さな暴力でも事件が起こったら通報してほしい」と口酸っぱく訴えてますが、現場の本音は「事件が起こる前に何とかしてほしい」であり、そしてこのすれ違いを埋めるべく自警団は誕生したのです。

参考までに昭和25年11月29日付うるま新報3面に記事を紹介しますが、当時の警察と自警団との関係がうかがえる興味深い内容です。

暴力一掃へ奮起 / 那覇、眞和志の自警團

夜の街から暴力と火事盗難等を一掃しようと那覇真和志目拔き通りの自警団関係者約二〇名はきのう午後三時から那覇署樓上に參集、石原那覇署長を中心に自警團强化懇談會を開いたが警察側からの要望は一、目拔き通り「特に神里原通り周邊」には宵の口から約六名の自警団を常時巡回させ警察に協力せしめて貰い度い

二、総ゆる「惡」を一掃する為街燈の点燈時間を延長する事等が擧げられたが那覇市では市場通、新栄通、中央市場通、千歳通の四通り團を纏めて新たに强力な自警団を置くことに大体意見の一致を見、真和志村では暴力火災盗難予防に好成績をあげている從来の自警団を更に强化することなどを申合わせたが具体案は市町村を中心に各代表者が協議し早急に强化發足せしめ夜の護りを完璧ならしめることになつている

昭和26年3月4日付うるま新報2面の記事では真和志村栄町(現那覇市)の自警団に関する記事が掲載されていました。

暴力遂に退散 / 榮町自警團のお手柄

料亭、旅舘、飮食店が軒を並べて發足した真和志村栄町は昨年中〇頃までは夜は血の雨の恐怖の街として通行人をおびやかしていたが昨年六月前記三業者が主体となり治安維持のため卒先して自警団を組織してからは不安解消、昨報の如く他地区の自警団員も栄町内での暴行をも取おさえ派出所に連行するなど暴力を完封 平和な町として面目を一新、住民を安どせしめている

もちろん自警団が設立されたからといって、盛り場の治安が劇的に回復したわけではありません。「酒、金、女」のトラブル三大要素がすべて揃う夜の繁華街でのいざこざが絶えるわけもなく、自警団は毎晩こんな連中と対峙しないといけない危険な任務が課せられていたのです。

私服の警官も刺さる / 荒れ狂う深夜の神里原

毎夜のように横行するスリ窃盗事件ならまだしも殺人、盗の街として、最近特に注目を惹いた夜の神里原界隈にまたもひと騒動一昨六日午後十一時二〇分頃那覇市神里原在飲食店世紀前で集團外人の暴行があるとの急報で通前派出所の末吉茂雄巡査等が現場に急行したが比島人同志のケンカであつたらしく、にその場は納つていたが末吉巡査(私服)は更に警戒の為食堂世紀のもん前にかゞんでいた所、どこからともなく現われた一比島人が末吉巡査に「君は何か」との意味の言葉を問いかけたので「僕はCP」である旨答えたが、該比島人はいきなりナイフ樣な刄物で末吉巡査の左乳上部を切りつけ長一寸五分深さ五分の切傷と左頭部に擦過傷を与え更にこの騒ぎに不審を抱いて世紀から出てきた那覇市一〇區九組安次富朝德君(20)も前額部に長さ二寸深骨膜に達する切傷を与えられ、付近住民並警防団員に依り那覇地區病院と四TT診療所に送られ応急處置を受けたが経過は良好の模樣なお加害者比島人は那覇署からの応援隊、〔自〕警団一般住民の協力で新栄通りで逮捕され証據品たる血のついたナイフと共にMPに引渡されたが一時は大騒ぎとなり深夜のことでもあつて怒號、指笛の喧騒の中に野次馬もたかり新栄通り通行中の事件と専ら関係のない一黑人兵も危く渦中に卷きこまれんとする等深夜の神里原は以前風波は荒れ狂つている(昭和26年1月8日付うるま新報2面)

六人組の暴徒 / 通行人を襲う

【中部支局】那覇市首里平良区2班工交局建築課勤務新垣安栄さん(28)は15日よる10時ごろ、コザ十字路かつぽう大和で飲酒のうえ帰宅途中コザ十字路近くの13号線路上で6人の暴徒に囲まれ「貴様は人間に反している」というなり1人の青年がいきなりナイフで切りつけ新垣さんがたじろくところを後方から2~3名がだきついて殴り頭部裂傷、左がん角裂傷同打撲傷、右腕刀物刺傷を受け、血だるまになつて歩いているところを通りがかりの米人将校に助けられコザ中央病院に運ばれ手当てを受けた。前原署では十字路付近に巣食う不良一味の仕業とみて捜査中。なお新垣さんの傷は全治2週間。(昭和32年1月16日付琉球新報夕刊2面)

いまも昔も風俗街で問題を起こす輩は “最低の人種” と相場が決まってます(参考までに、栄町で高級ウィスキーを飲んで暴れるのが定番だった某平和活動家のことではない)。もちろんそんな問題ありすぎの連中には警察の “抑止力” なんで全く効果ありません。そしてそういう連中に対峙するノウハウが蓄積された結果、昭和30年過ぎたごろには、自警団は「那覇派」や「コザ派」といったアシバーたちが運営するようになったのです。

それを踏まえた上で、昭和40年前後の勝連松島料亭街の自警団について検証します。(続く)