前回の記事において、「大里の下司の思い按司が節(1の29)」に登場したてるきみ(照君)とももとふみあかり(百踏揚)が同一人物である可能性について言及しました。参考までにてるきみ〔tirucimi:ティルチミ〕はてる(照)=太陽、きみ(君)=神なので、日神を意味します。
そうなると、ももとふみあかり(百踏揚)は前述の通り、「幾年に渡って(国を統治する)強く優れた(霊)力を授ける」との意で、その霊力は日神から供給されるわけであり、つまり最高レベルの女神官であることが分かります。そしてそのような女性は国王の子女(あるいは兄妹)以外考えられません。
試しにてるきみ(照君)のオモロをひとつ紹介します。
(七ノ十四)きこへきみのつんしかふし
一 きこゑ、てるきみきや、けおの、おれのきやすひ、なさいきよか、みおもかけ、たちちへ
又 とよむ、てるきみきや
又 くすく、おとん、みやけれは
又 しまうち、おとん、みやけれは
(七ノ十四)聞え君の辻が節
一 聞え照君が、京の降りの遊び、汝背人が、御面影、立ちて、
又 響む照君が、(一節二行目から折返)
又 ぐすく御殿、見上げれば、(一節三行目から折返)
又 島内御殿、見上げれば、
鳥越先生の解釈は「①②名高く鳴りひびく照君(女神官名)が、城の天から降りての神遊びは、あなたの顔かたちの思いが拡がって、③④お城の御殿を眺めると、…」になり、御殿を見上げると、国王の面影が偲ばれてくると述べた神託であると説明しています。このオモロでの注目は「なさいきよ(汝背人)」という表現であり、前にも説明しましたが、女性が親しい男性に対して呼びかける古語です。そしてこの言葉から照君は国王の兄妹か子女であることが分かります。
それらを踏まえて、ブログ主なりに調子に乗ってももとふみあかり(百踏揚)について深堀りすると、
1.古代りうきう社会において、ふみあかり(あるいはももとふみあかり)は中南部を中心に複数存在した女神官名である。
2.第一尚氏がりうきう社会に君臨した際に、最高女神官としての王族のふみあかりが誕生した。
3.王族のふみあかりの重要な役割のひとつが、王に「神號」を授けることである。
4.王が代替わりするたびに、ふみあかりも代替わりをした。そして先代のふみあかりはてるきみ(照君)を名乗って、引き続き高級女神官としての務めを果たした。
5.第一尚氏から第二尚氏に政権が代わっても、最高女神官としてのももとふみあかり(百踏揚)は存続した。つまり尚円王の系譜に現われない子女がふみあかりを継いだ可能性が高い。先に引用した国王の知念・久高行幸に同行した(とされる)ももとふみあかり(百踏揚)は尚円王の子女である。
6.ただし尚真王の時代に、最高女神官として聞得大君が誕生したことに伴い、ももとふみあかり(百踏揚)は代替わりすることなくその役目を終えた。
になります。さらに尚真王時代に誕生した聞得大君を中心とする神女組織は、第一尚氏時代にはすでに原型があり、第二尚氏はそれを発展的に引き継いだのではないかとの仮説も成り立ちます。
いかがでしょうか。もちろん文献などの史料では証明できない作文レベルの仮説ですが、「おもろさうし」を通読すると、ももとふみあかり(百踏揚)も阿麻和利と同じく複数存在したのではと思わざるを得ません。そして明らかに
越来や勝連とは無関係の存在
であり、ましてや北谷間切の出来損ないが出自の人物に “降嫁” するなんて絶対にありえません。次回はももとふみあかり(百踏揚)シリーズの最終話として、なぜ彼女が勝連と結びついたかについて言及します。(続く)