勝連城跡の謎 – 交易

前回の記事において、阿麻和利時代に港として利用されていたとされる “浜川” を拠点とした外洋貿易は無理であると述べましたが、今回はその理由について言及します。

ハード(船など)や航路の観点からは不可能ではない、だがしかし「無理」と判断した理由はいたって単純でソフト面の問題、具体的には勝連には外洋航海に携わる人材がいたか、「おもろさうし」からは全く読み取れないからです。

ハッキリいってこの問題は難しく考える必要はなく、

「言葉が通じないと交易はできない」

答えはこれです。もしも勝連に航海技術にたけ、なおかつヤマトの言葉に精通した技術集団が存在したなら、閩人(久米の三十六姓)のように集落を形成して生活しているはずですが、勝連のオモロにはそんな集団の痕跡が一切見あたりません。

そしてこの点も重要ですが、勝連には仏教施設が見当たりません。となると航海技術はともかくバイリンガルな人材をどこから登用したのか、それが証明できない限り、浜川を拠点とした外洋交易は「ありえない」ことになります。

ならば勝連城跡の一の曲輪で使用された “瓦” はどこから調達してきたのでしょうか。この点は思い当たる節があり、15世紀のりうきう社会において瓦を必要とした建築物を追跡していけばいいんです。それはつまり「仏教施設」です。そして、勝連から出土した瓦は、首里の為政者を通じて仏僧たちから調達し、那覇から近海航路(那覇→糸満→与那原→泡瀬→浜川)を利用して勝連城に運んだ可能性が一番高いと考えています。

つまり、わざわざ外洋にでる必要もなく、消耗品である瓦の「備蓄品」を仏僧たちから調達していたわけです。

いかがでしょうか。ブログ主は勝連城跡の出土品の「瓦」に強い興味を惹かれましたが、瓦ひとつから古代社会の様相を推測できる歴史の奥深さにちょっとした感動を抱きつつ、今回の記事をまとめた次第であります。(終わり)

【追記】「おもろさうし」に登場するはまかわ(浜川)について、

はま(hama):浜、浜辺、海浜

かわ(kaa):井戸、勇泉

であり、原義はおそらく「浜辺の恵泉」で間違いありません。ただし後世にその意が忘れられてしまい、「浜川(ハンガー)」の漢字が充てられたことで、「浜川カー」となったと考えられます。

つぎに「くとじ御嶽」ですが、これは「クトゥジ(ku・tuzi)」と読ませるために「くとし」と表記したものと考えられ、

く=ご:御(尊敬の接頭語)

とし(トゥジ):妻(刀自)あるいは伽(相手となって慰める)

であり、原義は「(巫女が)神と同衾する場所」で間違いないでしょう。古代社会の拝所にふさわしい名称だなと納得したブログ主であります。