
これまで「おもろさうし」から見た勝連の実力について考察してきましたが、それはあくまで中城や越来との比較であって、古代社会における勝連半島の地域が経済的に貧相だった裏付けにはなりません。その傍証として勝連城跡からの出土品から、それなりの財力を備えていたことが分かります。
その出土品のなかで、最も目を引くのは「瓦」です。改めて言及しますが、瓦が出土したのは、首里城と浦添城と勝連城跡であることを考えると、古代社会において如何に瓦が貴重品であったかが伺えます。ところが我がりうきうにおいて瓦が “国産化” されるようになったのは16世紀後半からですが、それでは16世紀以前はどうやって瓦を入手したのでしょうか。
古代のりうきう社会において瓦が輸入品であったことを伺わせる興味深い事例があります。それは「おもろさうし」には瓦に相当する語句が一切見あたらないのです。
沖繩語辞典を参照すると、瓦はKaara(カーラ)と発音しますが、「おもろさうし」においてKaaraは「かわら」と表記し、
・佳玻璃(かわら)=玉、勾玉、転じて魂の意味。対語は「てもち(保ち)」
・交刺巴(かはら)=爪哇(ジャワ)で地名
となり、鳥越先生も外間守善先生もだいたい同じ解釈になります。つまりこれらのオモロ用語は16世紀以前のりうきう社会では瓦は生産されていなかった有力な証拠になります。
ちなみに瓦が生産されなかったということは、瓦葺職人もいなかったことも意味します。にもかかわらずグスクから瓦が出土しているので、それはつまり瓦と一緒に職人さんも(国外から)連れて来たことになります。さすがに刳り船で瓦と職人さんを外国から輸送するわけにはいかないので、山原船(マーラン船)などの大型船をつかって勝連まで輸送したのではと考えられます。
近世から大正時代にかけて、山原船は砂糖樽や薪の輸送に使われていますので、そのレベルの大型船を使って建物に使う多量の瓦や職人さんを勝連まで運んできた可能性は大いにあります。ただし室町時代の日本や朝鮮半島から直接輸送したとはとても考えられません。次回はその理由について深堀します。
・あまわりパークに展示されている勝連城跡から発掘された瓦の破片です。