阿麻和利の謎 – 勝連按司(3)

今回は勝連按司に絡んで、通説の「阿麻和利」について言及しますが、ご存じの通り彼の出自については確定した定説はありません。ちなみに阿麻和利の出自が初めて公に明らかにされたのは、ブログ主が知る限り明治38(1905)年、琉球新報に掲載された「阿麻和利考」においてであり、偉大なる伊波普猷先生は「敵者である夏氏※」と断った上で彼の出自について紹介しています。

※参考までに夏氏とは大城賢雄を祖とする一族で、七代目が有名な湛水親方幸地賢忠(1623~1683)です。

阿麻和利は實にかういふ時勢に出たのである。そも〱彼は如何なる家に生れて、如何にして育つた者であるか。彼の父母兄弟の就いては記錄も口碑も之を語つてゐない。只だ彼の青年時代に就いて其敵者たる夏氏の『由來記』が

北谷間切屋良村に加那といふ者あり、幼児の時身弱く何の用にも立たず、長じて後力量人に超え性質尤も奸佞臣にして只だ人々の田を耕し己が田を耕さず淫を好んで家業を修めず、故に村人阿麻和利加那と呼ぶ云々

と記してゐるばかりで、もとより阿麻和利に取つて都合の好い記事ではない。だが其中にも亦彼れの面影が見えないではない。著者は阿麻和利加那をアマリ加那即ちワンパクモノの加那という義に書いてゐるが、村の人々は、多分之を天降加那即ち神童加那のつもりていつたのであらう。

ブログ主は外にも阿麻和利の出自についてチェックしてましたが、共通点があり、それは①北谷間切屋良村生まれであること、②12歳の時に親に捨てられた説があるほど、幼少期は出来損ないであったこと、③ただし青年期に「覚醒」し、その実力が周りの人たちに認められて出世する、といった点です。

青年期以降の彼の物語の詳細については割愛しますが、要は司馬遷著『史記』に出てきそうな「立身出世」と「没落」がセットになったお話なんです。試しに淮陰侯列伝(韓信)を一読すると、阿麻和利物語と構成が似ていることが理解できます。

ただしちうごく大陸の場合は、孔子の時代(紀元前6世紀)から「立身出世」を成し遂げた人物が現出し、それを何百年と繰り返してきた “歴史的土壌” があります。そしてその土壌は「政治制度や社会秩序は人間の手によって作り替えることができる(人治)」との発想があって始めて成り立ちます。

現代人にとっては「いまさら当たり前なことを」と思われるかもしれませんが、実は我がりうきうでは16世紀に至るまで制度や秩序は自然法則と同様に捉えられており、それは即ち「人の手によって社会を変える」という発想が為政者たちに欠けていたのです。

だから政治の場に於て、呪術(祭祀)が最重要なのです。

具体的には、神を操る(あるいは操られる)ことによって厳しい自然環境を制御しようという発想と同様、古りうきうの人たちは神の力を以て始めて社会秩序は安定すると信じていたのです。ブログ主は「おもろさうし」を通読することで初めてこの点に気が付きましたが、そうなると漢学流の「立身出世」を成し遂げた人物が16世紀以前にいたのかどうか、

ハッキリいって極めて怪しいです。

個人的には1689年に首里王府に「系図座」が設けられた際に、湛水親方の子孫が提出書類上で初代の大城賢雄の業績を讃えるために、阿麻和利について盛り盛りに「創作」し、その話が独り歩きして現代の阿麻和利像が出来上がったと考えています。もちろん今となっては証明する術はありませんが、18世紀以降の漢学のセンスで16世紀以降のりうきう社会を推測すると、誤解を生じるとの一例かもしれません。

それでは勝連按司については、いったん終わりにして、次回からはこれまた謎の人物である「ももとふみあかり」について考察します。