今回は番外編として謝名もい〔zanamee:ヂァナメー〕こと察度の伝説について考察します。今回取り上げるのは察度が勝連按司の娘を娶る物語ですが、ちなみにこの話の初見は羽地朝秀著「中山世鑑」です。つまり17世紀の意識高い為政者が、りうきうの伝説をどのように解釈していたかを知る貴重な内容と言えますが、先ずは物語の大意を紹介しますので是非ご参照下さい。
天女の子として生れた察度は成人して漁猟を好み農事を務めず、あるいは四方に選んで、父の教えに従わなかった。今でいえばいわゆる遊侠の徒となった。しかし父の(奥間)大親は彼を非常に愛した。
時に勝連の按司に一人娘がいた。才色兼備、貴族名卿の家から婚を求めるものきわめて多かったが、父母がそのなかの誰をすすめても娘が従わなかった。
察度はこれを聴いて勝連へ行って、按司に面接を乞うた。門番は察度の態度を見て、その方は何者であるか、こじきではないかと笑って取り次ごうとしない。察度が自分は一つの願いがあってわざわざ来たのだからと聞かないので、しかたなく按司に知らせると按司もふしぎに思い、呼び入れて会うことにした。
察度は、すぐに大庭にはいって行って按司に、私は貴方の娘が未だ嫁がないと聞いてもらいに来ましたと云った。これを聞いた按司をはじめ、側の家来たちも気違いではないかと皆口をおおうて笑った。
そのとき、娘が窓の隙から察度をのぞいて見ると、頭の上に君主のかさがうっすりと輝いて、厳然としたその態度が常人ではない。そこで父の按司に、この人こそ私の夫とすべき人であるといった。按司は大いに驚きかつ怒って、これまで多くの名卿貴族の求めには応じないで、いま、このような賤夫に汝を与えたら世間の物笑いになるばかりであると。娘は更に、この人を見るに容貌衣服いやしいようすではあるが、実は常人ではない。後に必ず大福があるにちがいないと云ってゆずらなかった。按司は平生、娘の才智に信服していたので、あえて反対せず、汝の心がすでにきまったのなら占いをさせて吉兆をきめようと云い、すぐにうななわせてみると、はたして王妃の兆があると出た。それで按司も喜んで許すことになり、察度に、汝吉日をえらんで娘を迎えよといった。察度は大いに喜び日をえらんで、娘を妻に迎えることにした。(「沖縄の歴史」15 察度は天女の子であつた 45㌻)
読者の便を図るべく、比嘉春潮著「沖縄の歴史」から該当箇所を引用しましたが、この話に限らず察度の伝説を「史実」として捉えている歴史家はおそらくいないかと思われます。というのも「中山世鑑」は羽地朝秀によって “創られた史書” であるのは定説ですし、事実上記引用も明らかな「作り話」なんです。その証明は簡単で、察度が生きた14世紀にはあり得ない設定が話に盛り込まれているからです。
それは太字の部分、「占いをさせて吉兆をきめようと云い」の部分で、該当箇所を「中山世鑑」から引用すると、
按司ハ元来博學大知ノ人ニテ御座ケレハサテハ易ノ占ヲ見ントテ周易ヲ開テ見給ニ乾ノ初九ニ當リタリ
經曰 乾元亨利貞〔乾は元(おお)いに亨りて貞(ただし)きに利(よ)ろし〕
初九 潜龍勿用〔潜龍(せんりょう)なり。用うるなかれ〕
であって、「乾ノ初九」とは易経からの引用ですが、14世紀のりうきう社会には朱子学を始めとした「漢学」はまだ普及していません。
なにより、占いで決するという発想自体がありえないのです。古りうきう時代のセンスなら、この手のもめごとはオモロを唱えて解決するのが常套であり、百踏揚の勝連脱出ストーリーが好例です。たとえば勝連按司の娘が “神ダーリー” してこんな感じのオモロを唱えたら信ぴょう性が増したかもしれません。
一 謝名の太郎もいや、意地気太郎もいや、鷲の羽差したる、上下の迎え誇らん。
又 汝が館身人が、御座されるとて知らんや。
意訳すると、①謝名(現在の宜野湾市大謝名)の勇気ある太郎もい(察度のこと)よ、(王者の証である)鷲の羽さしたるゆえに、身分の高い人も低いひとも彼を喜んで迎えるべきである。②父なる(勝連)按司がいらっしゃっても、やはりわからないであろうか(いやそうではない)になります。
今回、察度の伝説を取上げた理由として、17世紀以降に導入された漢学の知識が16世紀以前の古りうきうの理解の妨げになっている件を理解していただきたいからです。ちなみにその最たるものがひらがな表記に漢字を当てている件であり、これについては後日改めて言及します(終わり)。