前回までは公同会事件における頑固党と、現在のオールおきなわの勢力との比較を記事にしました。時代も主義・主張も違えど、驚くほどの共通点があったのですが、今回からは琉球新報社の古今比較を記事にします。
公同会事件において琉球新報の果たした役割は非常に大きいものがありました。公同会運動の特徴は
1.言論によって公同会の趣意を広く世間にアピールしたこと。
2.署名活動や地方遊説などを積極的に行って、那覇や首里の有力者層だけでなく、全県的な賛同者を募ろうとしたこと。
3.これらの活動はすべて合法的に行われたこと。それ故に奈良原知事をはじめ、沖縄県庁側も表立った弾圧はできなかったこと。
になります。特に目を引くのが2番で、特定の階級ではなく、あらゆる社会階層からの賛同者を募ろうとしたことです。この発想は頑固党にはなく、おそらく琉球新報社へ奉職していた首里士族出身の留学生たちのアイデアで間違いないでしょう。彼らは士族出身でありながら、階層の垣根を超える発想を立案して行動に移したのです。言わば伝統主義的な考えを超ようと試みたのです。
にも関わらず公同会運動は、元王族を世襲の沖縄県知事に据えて、特別制度を施行するという伝統主義的な発想も取り入れているという実に面白い現象なのです。おそらく全県的な賛同者を得ようとした苦肉の策でしょうが(太田朝敷先生は適宜の一策と呼びましたが)、この点を指摘した歴史家はブログ主は寡聞にして存じません。
王族をトップに据えて、特別制度を実施するアイデアを推進したもう一つの理由は、開化党の若手が勤めていた琉球新報社の設立目的にあると思われます。それは
1.1893年(明治26)に当時の沖縄県知事であった奈良原繁の発案で、元王族であった尚順を社長に、尚家の出資によって設立されたこと。
2.その目的は、沖縄に日本と同一の制度を施行するため、沖縄県人を啓蒙するために設立されたこと。それゆえ設立当初は機関紙的な性質が強かったこと。
3.もう一つの理由は、廃藩置県後も尚家が沖縄社会において社会的勢力を行使するための機関として設立されたこと。
になります。つまり琉球新報社は官製かつ尚家の持ち物で、開化党の若手たちがその手先として働いていたとも言えますが、日清戦争の勝利の結果、新聞社は単なる尚家の機関紙から一般紙への変貌を余儀なくされることとなります。(続く)