今回からは公同会運動の失敗について、ブログ主が大胆な仮説をもとに検証します。この運動に関しては、今まではネガティブな印象が強かったのですが、実際に調べてみると実に面白く、そして廃藩置県後の沖縄社会の変遷を理解する上で格好の素材であることが分かりました。この運動がなぜ失敗したかについて、これまでの歴史教科書等では「復古的」「旧士族の最後のあがき」などで簡単に片付けられているケースが多く、正直ちょっと勿体無い気がするので、ここはブログ主が調子に乗りまくって失敗した理由を検証します。
公同会運動のきっかけは、沖縄県庁をはじめ当時の社会が他府県人に牛耳られていることに対する不満です。県庁の職員だけでなく、甚だしきは学校の先生や、警官までが県外人主体になっている有様です。しかも鹿児島県人の抜擢が著しく、当時の沖縄県人、特に留学帰りの新知識人が社会の現状に不満を持つもの無理はありません。
ただしこの運動の面白さは
・開化党や頑固党の中心的存在であった旧士族階級だけではなく、階層の垣根を越えて全県的な賛同を得ようと運動が企画されたこと。
・言論・遊説・署名活動など、運動が合法的に行われたこと。それ故に沖縄県庁も無茶な弾圧ができなかったこと。
にあります。特に階層の垣根を越えて全県的な賛同を得るという発想は、頑固党の士族では絶対に思いつく筈もなく、留学帰りの開化党の若手たちのアイデアであることは疑いの余地がありません。
尚家を中心として、全県的な意思統一を図り、日本国内の沖縄県人を創るという発想は、明治維新の影響を受けていると考えられます。大日本帝国がなぜ日清戦争に勝利したのか、その答えを「天皇を中心とした日本臣民の形成」あると結論つけて、そして開化党の若手たちが、沖縄においても同じモデルを採用し、人心の統一、旧慣習の打破、階層の垣根を越えた沖縄県人の創設を試みようとしたと考えられます。
ではなぜ日本では成功して、沖縄では失敗したのか?その答えは琉球・沖縄の歴史においては尚家の存続を絶対化するイデオロギーがついに誕生しなかったことに尽きます。正確には、大名、士族、百姓の階級の間を越えて、尚家が沖縄を支配する根本思想、具体的には、日本の江戸時代における「崎門の学」を祖とする尊王思想のような強烈なイデオロギーが存在しなかったのです。それ故に公同会運動は、全県的な賛同を得たとはとても言いがたく、特に若い世代からは痛烈に批判されて、最後には有耶無耶のうちに会そのものが消滅してしまいます。(続く)
圧政の王を尊敬できるはずがないですよね、
日本の天皇の場合 直接統治していないので、その点は非常に有利だったと思います。