前回の記事において、第二尚氏以降も勝連城主は「阿麻和利」を名乗っていた可能性に言及しましたが、今回は詩人である「おもろ殿原」について深堀します。
巻八「おもろねやかりあかいんこかおもろ御さうし」におもろ音上がり(オモロ詩人)のオモロが43首集録されていますが、彼(あるいは彼ら)のオモロには女神官のオモロとは違った特色があり、具体的には「国王、按司、民」を強く意識したオモロが散見されるのです。
「おもろさうし」に集録されているオモロをチェックすると、神が祝福するのは国王(あるいは按司、城主)であり、支配下の民は “神の意識外” の存在です(この点が旧約聖書との大きな違い)。それはつまり古りうきう社会は国家意識が希薄だったというわけですが、ところが男性詩人たちのオモロには明らかに「城主と民」との発想があり、しかも興味深いことに他巻では見当たらない儒教を意識したと思われる内容のオモロすら唱えられてます。
ということは、オモロ詩人たちは為政者たちが “国家” を意識したであろう15世紀中ごろ、そしておそらく仏僧が多数来島した尚泰久王以降に活躍した存在であると仮定できます。ただし前の記事で紹介したオモロ「命上がりが節」に登場するオモロ詩人(おもろ殿原)が尚泰久王時代の人物だとすると、どうしても不都合が生じてしまいます。
大雑把にまとめると
・おもろ殿原は尚泰久王時代の人物であり
・阿麻和利の乱は歴史的事実である
となると、「勝連の主を選んだ国王の有能さを讃えたオモロ(命上がりが節)」を唱えた
バカなオモロ詩人が存在していた
ということになります。こんな間抜けな詩人は当然首(15世紀基準だとお察し)ですし、下手するとオモロ詩人という職能集団すら抹殺される事態になっていたかもしれません。それにともなって国王を讃えたオモロもなかったことにされるでしょうし、とにかく不都合だらけなのです。
それゆえにブログ主は、
阿麻和利の乱なんて最初からなかった
と確信せざるを得ません。「命上がりが節」に登場するオモロ詩人は、おそらく為政者たちによって国家意識が形成されつつあった尚真王時代に活躍した職能集団だった可能性が極めて高く、そして16世紀に入っても勝連城主は「阿麻和利」の聖名を称号していたと考えるのがすっきりします。
「おもろさうし」はまだまだ謎だらけの史料なので、それだけを使って歴史的事例を推測するのは乱暴な手法ですが、それでも18世紀の史料を通さずにオモロを通読すると、通説とは違った世界が見えてくることを理解していただけると幸いです。
最後に、阿麻和利の乱シリーズの〆として中城・越来のオモロとの比較で、勝連が独力で反乱を起こすにはあまりにも小さな存在であったことについて言及します。(続く)