阿麻和利の乱(二)

前回の記事において阿麻和利の乱を「史実認定」すると、どうしても不都合が生じてしまうこと、そして当ブログでは18世紀以前の史料、具体的には「おもろさうし」から首里と勝連の関係について推測する旨言及しました。100年以上前に偉大なる伊波普猷先生が試みた手法を採用するわけですが、伊波先生とブログ主では少し立場が違います。今回はこの点について説明します。

阿麻和利に関する最大の謎は「おもろさうし」に彼のオモロが集録されている件です。そして18世紀の史料において “沖縄一の逆賊” 扱いされた彼を讃えるオモロが存在する矛盾を解消した歴史家はいません。ブログ主なりにその理由を考えたところ、

・阿麻和利の乱を史実認定していること

・阿麻和利やももとふみあかり(百踏揚)を特定個人である見做している

点が挙げられますが、最大の誤解は我が沖縄では有史以来

人治が行われてきた

との認識で歴史が語られてきた点につきます。つまり「人間が治める」と「人治」は必ずしも一致するとは限らない点に気が付いていないのです。

既に言及しましたが、人治の根底には「社会秩序は人間の手によって作られる」との発想があります。そして人治の特徴は政治に「神を必要としない」点が挙げられます。正確には「神はあってもなくてもよい」であり、実際に羽地朝秀や蔡温の政治には “神は不要” でした。

ところが17世紀以前には政治の場において神は “不可欠” であり、統治者は常に神の承認を必要としていました。つまり

神権政治のど真ん中

が古りうきう社会の本質であり、その視点にそって阿麻和利のイメージを再構築した結果、

・阿麻和利は勝連を治める城主に代々伝わる “聖名” であり、特定個人とは限らない

との仮説を導くことができました。そして阿麻和利の乱もブログ主が導き出した結論が前述したとおり「18世紀の史料に登場する史実にすぎない」になります。

ちなみに「おもろさうし」を通読すると、首里と勝連は極めて良好な間柄であり、18世紀の史料という「バイアス」を通すとオモロの解釈に “ゆがみ” が生じることもわかりました。次回は首里と勝連との関係についてブログ主なりに説明します。