阿麻和利の乱(一)

今年の8月から当運営ブログにて定期連載してきた “阿麻和利” について、今回から彼が起こしたとされる反乱について考察します。

現在の我が沖縄において、護佐丸・阿麻和利の乱は15世紀の半ばに起こった “史実” として認識されていますが、その傍証としてGrok(XのAI生成ツール)に「阿麻和利の乱について教えて」と尋ねた際の回答がなかなかの出来栄えだったので全文を紹介します。

阿麻和利の乱は、1458年に琉球王国で発生した内乱で、勝連城の按司(アジ)であった阿麻和利と、王府の忠臣であった護佐丸との間で起こった紛争です。以下にその詳細を説明します。

背景と経緯:
阿麻和利は、15世紀の琉球王国において勝連半島を勢力下に置いていた按司で、幼名は加那(カナー)とされています。彼は東アジアとの貿易を進め、勢力を拡大していました。
尚泰久王は、娘の百度踏揚を阿麻和利に嫁がせ、さらに護佐丸を中城城の按司に任命して阿麻和利を牽制しました。しかし、阿麻和利は護佐丸が王位を奪おうとしていると讒言し、王府軍の攻撃を導きました。

乱の展開と結果:
1458年、阿麻和利は護佐丸を攻撃し、護佐丸は戦死しました。しかし、この攻撃は裏目にでて、阿麻和利自身も王府の反撃によって敗北し、処刑されることとなりました。
この乱の後、阿麻和利の野望は潰え、琉球王国の統一への道がまた一歩前進することとなりました。

文化的影響:
阿麻和利の乱は、琉球の歴史や文化に深く刻まれています。例えば、「肝高の阿麻和利」という舞台作品では、彼の生涯が描かれ、地元の中高生によって演じられる組踊として人気があります。
また、現代でもこの乱は歴史教育や観光の一環として語り継がれ、勝連城や関連する地元の文化施設でその歴史が紹介されています。

結論:
阿麻和利の乱は、琉球王国の歴史において重要な出来事であり、王府の権力構造や地方の按司の勢力争いを象徴しています。この乱は、琉球の統一への道程を示す一つの節目とも言えます。

ただし、阿麻和利の乱を史実認定すると、どうしても説明できない点がでてきます。それは

1.羽地朝秀著「中山世鑑」に明記されていない。

2.「おもろさうし」にも阿麻和利の乱を特定できるオモロが見当たらない。

3.現時点で勝連城跡には(考古学的に)大きな戦乱が起こった痕跡がない。参考までに首里城跡にはある。

あたりになります。それ故に偉大なる伊波普猷先生は「阿麻和利考」において、「羽地王子尚象賢が始めて琉球の正史『中山世鑑』を編纂した時に、この大事件たる勝連の乱を記さなかった所に深い意味の有ることを知らねばならぬ」と喝破し、そして「阿麻和利は沖縄最後の古英雄なり」で〆ています。そして先生の考察が現代における阿麻和利のイメージを決定づけた感がありますが、それに対してブログ主の仮説は、

阿麻和利の乱は18世紀の史料に登場した “史実” にすぎない

との単純なものであり、つまり歴史的事実とは考えにくいが、だからといって「そんなものはなかった」と断言する決定的な証拠もないという曖昧な存在と考えています。現代のりうきう史は18世紀以降の史料を中心に構成されているため、17世紀以前の出来事についてはどうしても “曖昧さ” がぬぐえないのですが、それ故に今回は思い切って17世紀以前の史料※である「おもろさうし」から首里と勝連の関係についてブログ主なりに考察していきます。

※必要に応じて18世紀以降の史料も引用します。

【追記】阿麻和利の乱を語る上で欠かせないのが「護佐丸」ですが、彼については「おもろさうし」の巻二(中城・越来のおもろ)にブログ主が確認した限り護佐丸を特定できるオモロが見当たらないので、今回は割愛します。ただし中城のオモロをチェックして確信できたのは、古りうきう社会における中城の国力の凄さであり、この点は機会があれば当ブログにて言及します。