~琉球藩当時の社会構造 その3~
ここまで延々と琉球王府(あるいは琉球藩庁)の為政者たちのクズエピソードを記述しました。改めて読み返してみると当時の為政者たちは「清々しいほどクズ」というか「ぐう畜」というか、どこに出しても恥ずかしくない鬼畜かつ堕落した連中であることには間違いありません。
なぜ当時の為政者たちがここまで堕落したのかを考えると、実は琉球国時代の上級士族と下級士族、および社会の下層階級である百姓たちには連帯感が全くなかったのです。理由は士族と百姓たちは住む地域が決まっていてお互いの交流がほとんどなかったからです。社会に階層を超えた連帯感がないために、上級階層は自分たちのことだけを考えて行動するのが習い性になります。
琉球王府の為政者たちは17世紀中盤に農村部の百姓の都市への移住を禁じて、18世紀中盤には百姓が農業以外の仕事に就くことを禁止します。その結果ただでさえ乏しい階級間の交流がほとんど途絶えてしまったのです。琉球国時代を通して社会階層の枠を超えた共通のイデオロギーはありませんし、「我々は同じ琉球人だ」という観念なんて全くありません。「我々は同じうちな~んちゅ」という概念が沖縄社会に浸透したのはなんと1960年代になってからです。
だから琉球国の時代は為政者である上級士族にとって百姓階級は「貢租を収める生き物」ぐらいの概念しかありません。人口の大多数を占める百姓階級にとって上級士族はまさに雲の上の存在で階級を超えた交流は全く考えられません。水戸黄門や暴れん坊将軍のようなフィクションは沖縄では成り立ちません。
では為政者である上級士族と百姓階級はどのようにコミュニケーションをとっていたのでしょうか?実は百姓階級から選抜した人材を首里や間切内の教育施設で訓練して、百姓階級と士族との間との仲介を行っていたのです。為政者たちに選抜された人材は言い換えると百姓階級における特権階級で、彼らのことを奉公人と呼びます(続く)。