~琉球藩当時の社会構造 その1~
1872年(明治5)に琉球国王尚泰は明治天皇により琉球藩主に封じられます。これによって琉球王国も琉球藩としてリスタートするのですが、では当時の社会はどのような状況だったかを簡単に記述します。
琉球王国から琉球藩に鞍替えするも、王国自体の社会構造は維持されます。階級は大名と士族と百姓の3つで、上級階級の大名は尚王家および王子家などの一族で構成され社会の名誉、権力、富を一手に握る存在でした。
中間階級の士族は無禄の士族がほとんどで、琉球王府側が十分な役職を提供できないため困窮の状態にありました。役職についても数年間は無給で働いてその後ボーナス支給の給与体系でしたので全体的に貧乏な士族が多かったのです。
下層階級の百姓(町百姓と田舎百姓)は18世紀中盤の王府の政策によって農業以外の就業を禁止されます。間切からの移動も厳しく制限されたために事実上農奴の地位に従属せざるを得ませんでした。土地の所有も禁止され、しかも独自の土地制度の影響で農地の荒廃が進み19世紀中盤になると村や間切の破産が社会の大問題になります。
当然農民の暮らしは貧しくなる一方ですが、間切や村を所有して土地収入を得る立場にあった親方衆(大名クラスの上級士族で按司地頭、脇地頭と呼ばれる)はそんなこと関係ないとばかりに農民から遠慮なく搾取します。
つまり
1.国王とその一族が名誉と権力と富を一手に握り、
2.上流階級は国体護持すること以外は考えることなく、
3.人口の多数を占める百姓と無禄の士族は困窮に苦しみかつその状態から抜け出すことが極めて難しい状態、
という理想的な悪政を敷いている状態でした。苛政は虎より猛しとはまさにこのような状態ですが、上記の3点は現代でもどこかで見覚えがあるのではないでしょうか?
そう、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)がまさに150年前の琉球王国の状態と同じなのです。尚王家を金一族に変えたらそっくりではありませんか。だからハッキリ言って現代の沖縄県民には北朝鮮を馬鹿にしたり笑ったりする資格はありません(続く)。