前回までに代表的な旧慣制度について説明しましたが、廃藩置県後に明治政府は旧来の制度を温存して沖縄県を統治します。これら措置は当時の時代状況を振り返るときわめて正しい措置です。沖縄県政五十年(太田朝敷著)において著者は当時の清国と日本の力関係が沖縄県における抜本的改革が遅れた理由であると看做して近代化の遅れを激しく批判しています。
実際に廃藩置県から日清戦争前の国力は清国>>>>日本でしたので、太田先生のご意見はごもっともですが、明治政府側が急激な改革を断行することによる社会的混乱を恐れたことも見逃すことができません。2代目県令の上杉茂憲氏(1881~1883)が当時の沖縄県の疲弊に衝撃を受けて抜本的改革を政府に提案しましたが、実際に改革が施行したら悲惨な結果になったこと間違いありません。
いかなる理由があっても権力が強権をもって地域共同体を解体するのは最低・最悪の政策です。この点を無視して明治政府が沖縄県における改革を断行しなかったことを批判しても無意味なのです。よく見ると大日本帝国時代の沖縄県はドラスティックな改革を行ったにもかかわらず、社会全体が血の雨に染まるような大惨事*はほとんど起こっていないのです。
*例外は廃藩置県当初に宮古島で起こったサンシー事件。
*日本史における土地制度の大改革は何といっても太閤検地ですが、実はその過程で一揆が頻発して物凄い血の雨が流れます。それに対して1871年の廃藩置県は予想の斜め上を行くスムーズさで事が進行したため駐日英国大使のパークスは「天皇陛下はマジで神じゃね???」と驚嘆します。それほど土地制度を含む社会制度の改革は困難を極めるのです。
制度の改革にはタイミングがあり、その見極めを間違えると悲惨な結果になりかねません。その点廃藩置県当初は辛抱強く県政を運営して、日清戦争の勝利後に一つ一つ琉球王府時代の旧慣を改変して近代的な政治・法制度を整えた明治政府の手腕は高く評価して然るべきです。それゆえブログ主は沖縄県の近代化に尽力した中心人物である奈良原繁氏(第4代官選沖縄県知事。在職は1892~1908)のことを琉球・沖縄の歴史における最高の政治家の一人と断言するのです。