続・琉球藩の時代 クズエピソード再考 その2

Mochinori_Uesugi

ご存知の通り、琉球藩は1879年(明治12)に廃され、沖縄県が設置されます。それから2年後の1881年(明治14)に第2代沖縄県令として上杉茂憲氏が赴任します。そしてその年の11月に上杉県令は吏員数名を引き連れて沖縄各地を巡回していますが、そのときのエピソードを紹介します。

上杉県令は1881年(明治14)11月8日に那覇の公舎(当時は泉崎にあった)を出立して島尻地方を巡回します。11日には東風平間切の番所に到着します。上杉県令は島尻地方を巡回中に、各地で住民の食料である甘藷(イモ)が不足していることに気がついて、なぜ住民の食料である甘藷が不足しているのかを東風平の吏員に詰問します。そのときの問答を「沖縄県史」より抜粋します。

吏員謁を取る、令公(上杉県令)巡回の大旨を陳ふ、問当年の作並如何、答穀物可なりの作なり、然し蕃薯(唐イモ)は不足なり、二三月比は、往々蘇鉄*を喰ふに至れり、因て蕃薯の不足せしは何故なるや、其原由を詰問せられしに、答当間切は、宿債二万五千円*の巨額に上れり、近年砂糖の価騰貴せしゆへ、宿債を支消せんが為め、多く甘蔗(サトウキビ)を植へ、自然に蕃薯の不足を来たせり、抑昨年焼過糖(たきかとう)*の代価を以て、既に五千円は償却せりと、虚飾なく弁解す、是に由て之を観れば、是迄巡視せられし、各間切に於て、蕃薯の不足を告げたるは、要するに砂糖の価騰貴せるゆへ、右代価の高利あるを、貪りたるを推知せらる、因て令公曰、糧食は一日も欠く可からざるものなれば、尚旧藩政に仍り能々汲量、食料に乏しからざるよう、職として蕃薯を植べき旨、懇々説諭せられたり。

*ご存知の通り、蘇鉄は毒をもっています。調理方法を誤ると死に至ります。

*1873年(明治6)に、琉球藩が始めて明治政府に貢租を上納したときの総額は約4万3千円です。その額と比較すると当時東風平間切が抱えていた宿債の大きさが分かります。

*焼過糖(たきかとう) 琉球王国時代においては、甘蔗(サトウキビ)の作付けは厳しく制限されていました。収穫した甘蔗は黒糖に加工され、一部は貢租として上納、一部は王府が定価で買い上げるシステムでした。貢租と買い上げされた余剰の黒糖を焼過糖といいます。

このエピソードはまとめると

  • 琉球王府が定めた甘蔗の作付け制限が遵守されていない。
  • 地域住民の食料である甘藷畑をつぶして、サトウキビを生産するので、当然食料不足が発生する。
  • しかも、これらの方針が常態化して、廃藩置県後に赴任した日本人の吏員でも止めさせることができない。
  • その結果、間切が抱えている宿債(借金)は有る程度償却できるも、食料不足が慢性化してしまい、住民は蘇鉄を食せざるを得ないほどの生活苦を強いられる状況になってしまった。

になります。昭和に入ると1929年(昭和4)の世界恐慌の影響で、沖縄県も大不況に陥ります。そのときの惨状は後に「蘇鉄地獄」と呼ばれましたが、このエピソードによれば廃藩置県までの東風平間切(に限らず債務超過の島尻地方の間切)では蘇鉄地獄が常態化していたことが分かります。しかもその地獄は人為的に作られたものだったのです。

琉球藩時代の東風平間切の総地頭は義村朝明(よしむら・ちょうめい 1830~1898)です。彼は、当時の地頭にしては珍しく、直接東風平に乗り込んで、自ら間切の建て直しに尽力した点が賞賛されていますが、住民の食料確保を後回しにして、借金を返済して、その結果人為的に蘇鉄地獄を演出した手腕を褒め称えるほどブログ主は寛大ではありません。もちろんこのアイデアは義村総地頭ではなく、島尻地方共通のやり方だったことは間違いありませんが、果たして住民を借金奴隷の如く扱う手法をどのようにして擁護すればいいのでしょうか。(続く)

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