今回、琉球藩の時代の連載を再開するにあたって、過去の記事を読み返しましたが、やはりクズエピソードの部分が強烈な内容になっています。これらのエピソードは「沖縄県史」や比嘉春潮著「沖縄の歴史」、あるいは真境名安興著「沖縄一千年史」などからの抜粋ですが、現在の歴史教科書では余り取り上げることがありません。〈琉球・沖縄は薩摩の侵略以来ずっと差別されてきた〉という歴史観が、これらの事実に目を閉ざす最大の理由になっていることは間違いありません。
尚泰王の時代の琉球社会が停滞した理由のひとつに、琉球国の人口が増えすぎた点があります。1609年(慶長14)の慶長の役以降、琉球国は内部の変革を強要されます。ただし薩摩経由で新産業が流入し、甘藷(唐イモ)の普及、および通貨(鉄銭)の大量供給、さらに社会インフラの整備(橋梁の増設)などの政策で、国内の産業経済が活性化します。産業経済が活性化したのは、人と物資の移動がかつてないほど活発になったからですが、残念ながら琉球王府の財政には好影響を及ぼしませんでした。
産業経済が活性化すると、当然の結果として人口が増加します。18世紀にはいると、慶長の役前後に比べて最低2倍に人口が増加していますが、そうなると人口増が原因の新しい問題が発生します。それらの諸問題に対して琉球王府および間切などの地域社会が対応できなかったのが、結果として幕末期の産業経済の停滞を招くことになったのです。
琉球藩設置前後は、国内の産業経済は壊滅状態でした。最大の理由は1861年(文久元)から薩摩藩が主導した「文替わり」の経済政策で、このハイパーインフレ政策が停滞していた琉球国内の経済にトドメを刺すことになります。この政策は本当に鬼畜そのものですが、住民たちが阿鼻叫喚のなかで1866年(慶応2)に冊封を行った王府も負けず劣らずの鬼畜そのもので、ブログ主のレベルではとても擁護できません。
クズエピソードは上記の案件だけで、十分おつりがくる程ですが、その後ブログ主が調べると、さらに出てきたのには本当にびっくりしました。いかに当時の産業経済、および為政者(薩摩藩ふくむ)のレベルが低下しているかを実感しましたが、その中からひとつのエピソードを掲載します。(続く)