前回の記事において、日下先生が唱える「15歳から25歳の若者が全人口に占める比率が15パーセントを超えると、その国は戦争をするのである。何らかの理由で10パーセント以下に下がると、戦争は止む」の仮説を、ブログ主が実際に沖縄県の人口統計をチェックして検証しました。
統計の都合上「14歳から24歳の若者人口が全人口に占める比率が15パーセントを超えると沖縄社会に何が起こったか」を考察しました。明治12年以降、沖縄は独立国家ではなく一地方行政単位なので、戦争ではなく若者比率が急上昇すると社会にどのような影響を及ぼしたかを調べると、実に興味深いことが分かりました。先ずは明治13年から昭和にかけてブログ主が纏めた人口統計表をを貼り付けします。
ブログ主が現時点で確認できた人口統計から、全人口における若者人口(14~24)の比率をチェックすると、明治16年と25年の比率が非常に高いことが分かります。そしてこの時代の前後に多くの優秀な人材が数多く輩出しているのも特徴的で、しかも規格外の人材が登場しているのが驚きです。
たとえば、農村出身の奉公人階級であった謝花昇(1865年生まれ)は明治16年当時18歳で、第一回県費留学生として東京に在住していましたが、彼は心身ともに抜群のスペックの持ち主で、留学生の中でもひときわ群を抜いた存在でした。彼は沖縄初の学士として帰沖し、農業技師として(しかも高等官)沖縄県庁に勤務します。彼は後に悲惨な最後を遂げますが、後に沖縄の青少年たちは「東風平謝花を見習え」との心意気で勉学に励むようになります。
明治25年(1895)の若者比率は異常の一言で、3年後に沖縄一中でストライキが勃発したのも理解できます。明治25年前後の沖縄県は激動期にあたり、
明治25年(1892)奈良原繁知事の就任。
明治26年(1893)琉球新報社の設立。
明治27年(1894)日清戦争の勃発で、開化党と頑固党の対立が激化。
明治28年(1895)沖縄一中ストライキ勃発。
明治29年(1896)公同会運動。
これを見ると、奈良原知事の就任はグッドタイミングだったことが分かります。ちなみに明治28年の沖縄一中ストライキは、琉球新報も加担してものすごい騒動になりますが、若者比率をみると大騒動になった理由が分かります。そのときの首謀者にはは伊波先生をはじめ、沖縄の歴史に名を残す人物が複数います。そして伊波先生のような異端中の異端が誕生するもの納得です。
明治35年以降から若者比率の割合が若干下がるのですが、その原因はおそらく海外移民と出稼ぎにあるかと思われます。それでも若者比率が18% の高い比率なので、当時の沖縄社会は若者だらけの物騒な状況だったかもしれません。大正シルークルー政争(1923~35)や嵐山事件(1931)のような大騒動が起こったのも理解できます。例外はこれだけ若者がいながら戦前の沖縄社会にはヤクザ(暴力団)が誕生していません。この点は本当に歴史の謎です。(続く)