ブログ主が知っている限りですが、1879年(明治12)までの琉球・沖縄の歴史において一揆は一度たりとも起こっていません。日本史、とくに室町中期から江戸時代末はでは一揆の時代と言っても過言ではないほど一揆が多発します。国人一揆、国一揆など一揆に関する用語も多彩です。
1879年(明治12)までの琉球の歴史には一揆はおろか住民暴動の痕跡が見当たりません。1650年に初めて編纂された通史「中山世鑑」をはじめ、他の史書にも記載が見当たらないのです。黒歴史として抹消したのでは?との仮説も成り立ちますが、琉球王国末期で社会が疲弊して村や間切の破産が社会問題になっているにも関わらず住民暴動が一件も確認できないのは腑に落ちません。
琉球・沖縄の歴史において一揆らしい一揆といえば1931年(昭和6)の嵐山事件です。この事件は沖縄県当局が極秘に進めていた羽地村(現在の名護市羽地)へのハンセン病患者の療養施設建設が琉球新報にスクープされたことがきっかけで勃発します。反対運動を主導したのは社会主義思想に傾倒した青年団ですが、7000人を超える村民の反対運動をはじめ名護や大宜味、今帰仁にも運動の輪が広まって沖縄北部社会は騒然とした雰囲気になります。
住民運動は地元の羽地村民や運動を主導した青年部だけではなく、羽地村役場の村長の辞任、役人の業務ボイコットをはじめ納税拒否や学童の同盟休校など官民一体とした反対運動にまで発展して収拾のつかない事態になります。さらに反対運動は過激化して100名を超える検挙者が出るも、1932年(昭和7)に沖縄県当局が療養施設計画を撤回することで事件は終結します。
この事件は当時称癩(らい)一揆と呼ばれて沖縄県人の大きな注目を集めます。1879年から1945年までの大日本帝国下の沖縄県の時代では、1895年(明治28)の沖縄一中ストライキ事件をはじめさまざまなストライキや抗議活動が起こるようになりますが、その中でも嵐山事件は別格です。現在の沖縄の歴史家にとって嵐山事件は黒歴史扱いで積極的に取り上げてくれないのは実に残念*ですが、大規模な住民運動を展開することで県当局の計画を撤回させたことは当時の社会に大きな衝撃を与えます。そしてその時の成功体験が1945年以降のアメリカ軍による占領行政下の住民運動の激化につながるのです(続く)。
*嵐山事件については後日記事に纏める予定です。