先にフェイスブック上で、明治8年(1875)の松田と三司官との交渉をテンプレ形式でまとめて投稿しました。思った以上に出来がよかったので、一部訂正して当ブログ内でも掲載します。余談ですが大城立裕著「沖縄歴史散歩」のなかで、著者は琉球処分官として来琉した松田道之のことを絶賛していますが、ブログ主も同じ感想です。
~明治8年5月29日首里城にて~
松田「琉球藩は支那断ち(清国との関係断絶)を図るべし云々……」
三司官ほか琉球官吏絶句
国王尚泰ショックで引きこもる&神仏祈願にハマる。
~その後の松田と三司官との交渉~
三司官「支那(清国)と琉球の関係は父子の関係で断絶したら信義を失い国が成り立ちません云々……」
松田「一理あるけど、今後はその考え方は通用しない云々……」
三司官「清国と相談しなくても大丈夫でしょうか?」」
松田「清国は先の台湾出兵(明治7年)の結果、琉球は日本領と認めたからその必要はない。」
*幕末における琉球の対外交渉において、琉球側に都合が悪い場合は「当藩は清国の藩屏にて、清国側の許可を得て得て云々……」と持ちかけて時間稼ぐのが慣例でした。
三司官「今年(明治8年)も進貢船を派遣して従来どおりお付き合いしていますが?」
松田「その節は明治政府から清国にクレームだすから気にしなくてもいい。」
三司官「清国からの譴責(クレーム)が怖いです。」
松田「その際のクレームは日本に来るから心配しなくてもいい。」
三司官「日本と清国で協議して、清国から関係断絶の提案があったら支那断ちの条件を飲みます。」
松田「それはつまり、日本の通達よりも清国の咨文(しぶん、外交文書)を優先することかな(怒)」
三司官「明治政府に直接嘆願して、却下の場合は条件を飲みます。」
松田「それは委任されて派遣したボクを無視するということかな(怒)」
三司官「新聞で支那(清国)が琉球に軍艦を派遣するニュースに群集がおびえて協議がまとまりません。」
松田「新聞は虚説が多いから気にする必要はない。」
三司官「直接支那に問い合わせて軍艦派遣の件を先に確認したいのですか?」
松田「新聞は虚説が多いって言っているだろう(怒)」
三司官「松田さんが我々の言い分を受け入れないから決めることができません。」(何と太政大臣三条実美宛の文書で正式回答した。逆キレした内容は下記参照。)
当藩支那との続き五百年の縁由有之信義の掛る所にて断ち絶候難致是迄通被仰付度松田道之へ段々願申上候得共、御採用無御座其儘御請仕候儀、藩中人心の安んせざる所にて使者立を以政府へ申上乍(ながら)此上御採用無御座候はば御請可申上段三司官口上を以て奉願候得共、此儀も御聞取無御座然迚(とても)直様御請も難仕次第御座候此段申上候也。
(意訳:当藩(琉球藩)は500年支那(清国)との縁あり信義の問題にて関係断絶は難しく、これまで通りのお付き合いを松田道之(呼び捨てしていることに注目)に申し出てお願いするも採用されず、このまま御請けすると藩内人心が混乱するため直接政府申立ての上、採用されない場合はそのまま御請けする提案も拒否されたため、とても今すぐ(御達書の)提案を御請けすることができません。)
太政大臣 三条実美殿
琉球藩王 尚泰
松田「それ、マジでいっている?(怒)」
三司官「お願いします、明治政府に直接嘆願したいです。」
松田「政府の御達書は拒否とみなして明日帰ります。国法によって処分するからそのときはヨロシク」→そして最後通牒を突きつける。
~国王および三司官が松田の最後通牒を見てガチでびびる~
国王尚泰「御達書の条件を受け入れます」
~しかし首里城や那覇で国王の使者が反対派に囲まれて騒動発生~
国王びびる「やっぱり条件受け入れを取り下げます」
松田「しょうがないから明治政府への嘆願を許可します。ただし中央が嘆願却下したら東京で御達書を御請けすることでおk?」
国王尚泰「分かりました。」
~そして東京において~
琉球藩代表「我が藩は支那との五百年来の云々…」
明治政府「却下」
松田「政府が却下したから、御達書の条件は受け入れておk?」
琉球代表「そんな王命は受けていません」
松田「署名付の正式回答があるんだが(怒)」(その正式回答は下記参照)
太政大臣 三条実美殿
当藩支那との続五百年来の縁由有之信義之掛る所にて断ち絶候儀難致是迄通被仰付度内務大丞松田道之へ段々願立候得共御採用無御座其儘御請仕候中人心之安ぜざる所に候間藩吏之内人選之上拙者之委任を與へて上京せしめ今一応政府へ申上其上御採用無御座候はば東京表に於て直に御請可申上趣を以て遂に松田大丞の許容を得今般池城親方差出與那原親方幸地親方喜屋武親雲上内間親雲上随行申付候条宜御頼申上候也
琉球藩王 尚泰
琉球代表「そんな王命はうけていません」
松田「国王のくせに食言(二枚舌)を使いやがった。よし清国渡航を厳しく制限したるわ(怒)」
琉球代表「お願いします。これまで通り清国との関係を続けたいです(嘆願14回)」
明治政府「今後琉球藩からの嘆願は一切受付ません(呆れ)」
~琉球代表は浅草観音へ参詣、藩内では国王をはじめ各所の寺院嶽森で絶賛祈願中も明治政府は嘆願を一切うけつけず~
その後駐箚清国大使(明治10年3月赴任)から明治政府に対して琉球問題に対する正式な抗議があり、そのことを知った琉球側が大きな態度を取るようになった件は後日紹介するとして、上記の交渉の流れを見ると
「廃藩置県になってもしょうがないわ(怒)」
という感情しか沸きません。ブログ主のレベルでは当時の琉球藩の首脳部を到底擁護できないのですが、ここは落ち着いてなぜこのような惨い交渉を行ったのかを考えると、それは
「国王尚泰の決断力のなさ」
に尽きます。次回この点について説明します。(続く)