前回の記事において、当時の琉球の対日外交が円滑かつ適宜に行われていた件を記述しました。15~16世紀における薩摩と琉球の関係は島津家曰く「貴国(琉球)と我が国は兄弟の約」とありますが、実際には対等に近い関係でした。その関係にひびが入ったのが、1570年に来琉した薩摩の使者雪岑和尚(せっしん)への応対問題です。(この事件は紋船一件の名で呼ばれることもあります)
『沖縄一千年史』、あるいは『沖縄歴史散歩』からの抜粋になりますが、事のいきさつは下記参照願います。
・1570年に「印判状」の問題解決のため、薩摩より僧雪岑(せっしん)を派遣。
・その際に琉球側では「先王薨去の際のドタバタ」が理由で、薩摩の使者に対する接待に粗相が生じてしまい、雪岑和尚のメンツをつぶしてしまう。
・1574年に島津国老、琉球へ書を送り「使者雪岑の応対が旧例に背いた」とのクレームを申し立て。
・1575年に琉球紋船を派遣、その際に薩摩から琉球の使者に対して詰問あり、琉球側が非を認め謝罪する羽目になる。その際のクレーム内容と返答は下記参照。
進物が少ない件は、黄金三十両を新たに献ずることで一旦は了承(ただし島津義久が受け取り拒否)、結局は薩摩側のクレーム申し立てを琉球側が認める形での決着になりました。この時の琉球の外交は明らかに「賢くない」のですが、この外交の失敗のツケは極めて大きく、この後薩摩が琉球に対して威張った態度をとるようになるキッカケになってしまいます。その後運の悪いことに「賢く外交、友好」の手段が通用しない豊臣秀吉が登場して琉球の外交は危機的な状況になります。
やはり「賢い外交、友好で国を栄えさせる道」には限界があって、特に時代の変わり目の対応には極めて不向きな方針であることは疑いの余地ありません。雪岑接待問題の教訓は
・外交使節のメンツをつぶすことは避けなければならない。
・非はこちら側にあっても、下手に出て全面的に認めるような交渉はしてはいけない。
・いったん外交における力関係が決まってしまうと、それをひっくり返すのは至難の業である。
になります。雪岑応対問題は軍事力の裏づけのない外交交渉はいったん相手が強気にでるとモロいという典型的な例です。この貴重な教訓は今後の沖縄県の当局が生かしてくれることを願いつつ、今度はお馬鹿な外交を展開した幕末の琉球王府の交渉について記述します。(続く)