閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その5

4月23日から開催された第140回九州地区高等学校野球大会(通称春の高校野球九州大会)の現地観戦および記事作成で、本題の歴史ネタの更新をサボっ てしまいました(汗)。今回から、我々のご先祖は賢い外交をしてきたのかの考察に戻ります。

今回紹介するのは明治8年(1875)の明治政府から派遣された松田道之と琉球藩庁との交渉について記載します。琉球・沖縄の歴史上であまりにも有名な明治 8年5月29日付けの太政大臣三条実美名義の(琉球藩への)通達ですが、その内容は下記参照ください。(旧漢字は訂正すみ)

琉球藩

一、其藩の儀従来隔年朝貢と唱へ清国へ使節を派遣し或は清帝即位の節慶賀使差遣はし候例規有之趣に候得共自今被差止候事
一、藩王代替の節従前清国より冊封受け来り候趣に候得共自今被差止候事

明治八年五月二十九日 太政大臣三条実美 

琉球藩

一、藩内一般明治の年号を奉じ年中の儀礼等総て御布告の通遵行可致事
一、刑法定律の通施行可致因て右取調の為担当の者両三名上京可致事
一、藩政改革別紙の通試行可致事
一、学事修業時情通知の為人選の上少壮の者十名程上京可致事

右条件之通可心得此旨相達候事。

上記の通達に加えて、松田道之大丞の丁寧な「説明書」も付けて琉球藩の今帰仁王子に授ける形になったのですが、この通達が琉球藩内において大パニックを引き 起こすことになります。そして国王尚泰は心身を病んでしまって首里城内の王様居住区に引きこもってしまい、摂政三司官は見事なまでに「思考停止」に 陥ってしまい上記の通達に対してどのような対応をしていいか判断がつかなくなります。

国王尚泰および摂政三司官がパニックを起こしたのは理由があります。予想の斜め上を超える事態が起こった場合に人は誰でも思考停止してしまうしか方法がないのです。2002年に北朝鮮を訪問した小泉純一郎首相に対して、金正日将軍(当時)が拉致を認めた際の社会民主党系の活動家や知識人のパニックぶりが思いだされます。しかも明治5年(1872)に琉球藩に封じられて以来、減税措置と国対護持が約束された経緯があるので、当時の藩庁の首脳陣の慌てふためきぶりには同情を禁じえません。

ただし、国政を任されている以上何時までもパニック状態を引きずるわけにもいけませんが、琉球藩の首脳部は残念ながら適切な外交交渉を行うことができませんでした。最大の理由は明治維新をはじめ19世紀後半の東アジアの情勢の変化にあまりにも無関心だったことです。そのため清国の凋落やなぜ明治維新が起こったのか琉球藩内での考察が一切なされていないため、結果として琉球藩の首脳部は時代の変化に全くといっていいほど対応できなかったのです。(続く)

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