閑話 人口の増加が沖縄社会に与えた影響を真面目に考えてみよう アメリカ世 その2

前回の記事において、昭和25年から30年にかけての人口急増が社会に及ぼした影響について説明しました。昭和20年(1945)の沖縄戦直後の人口が推定で35~40万で、昭和15年の沖縄県の人口が57万人ですから、戦争の結果ものすごい人口の減少を経験していることになります。

沖縄戦による人口激減は、「運の強い人、あるいは心身壮健な人が生き残った」ことを意味します。そして生き残った先人たちが戦後子どもを産むことで沖縄社会を再建します。つまり「強運かつ遺伝子のスーパーエリートが子孫を残した」と言っても大袈裟ではないのですが、昭和25~30年までに生まれた世代が成人して社会の一線で活躍するのが昭和45年(1970)前後です。その際に沖縄社会にどのような事件が起こったかを振り返ると、

・昭和42年2月24日:立法院包囲案件(教公二法阻止闘争事件)

・昭和43年8月:第50回全国高等学校野球選手権大会における興南旋風。

・昭和43年11月10日:第一回行政主席通常選挙。

・昭和45年12月20日:コザ暴動。

・昭和46年11月19日:沖縄ゼネスト。

・昭和47年5月15日:本土復帰。

・昭和48年5月:若夏国体。

ざっと挙げただけでも、沖縄の歴史に残る大事件が頻発しています。これら個々の案件についての詳しい説明は省きますが、昭和20~30年における人口の急増との関連性は疑いの余地がありません。それにしても沖縄の本土復帰は人口増減の観点からすれば、ナイスタイミングで起こったんだなと思います。

参考までに昭和45年前後に起こった凶悪事件&アンダーグラウンドの動きを挙げてみると、これまた実に物騒な事件が頻発しています。注目は琉球銀行若松支店強盗傷害事件で、これは20代の若者たち(しかも主犯は弁護士)が起こした史上例のない凶悪事件です。当時の物騒な社会情勢を反映していると思わざるを得ません。

・昭和42年3月29日:福地曠昭さん、右翼テロで重症を負う(沖縄初の右翼テロ)。

・昭和42年10月19日:第三次暴力団抗争で、普天間派の首領が殺害される(田場盛孝殺害事件)

・昭和43年7月5日:琉球銀行若松支店強盗傷害事件。

・昭和45年12月8日:沖縄旭琉会の誕生。

・昭和49年9月20日:第4次暴力団抗争スタート(昭和56年までつづく)。

日下公人氏は「15~25歳の若者人口が急上昇すると戦争が起こる。ただし例外は1960年代の日本(と韓国)」と述べられていましたが、昭和45年前後の沖縄社会も例外にあたると思われます。戦争こそなかったのですが、当時の経済成長率は年平均で10%以上(17%なんて年もあったとか)、戦後生き残った先人たちの子孫が歴史上かつてないレベルで栄養と教育を与えられて、沖縄社会で暴れ回っていたと言っても過言ではありません。先にも述べた通りこの時にに本土復帰が実現したのも、若者人口の急増が大きな役割を果たしたことは間違いありません。真理は意外に単純なところにあるんだなと実感します。(続く)

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