沖縄県では極めて少数派ですが、日本国から独立して一国家としての琉球国を運営したい主張が見受けられます。まともに相手にされていないのが現実ですが、ここでは調子に乗って琉球独立論について常々思うことをくそまじめに記載します。
現代社会での独立国の定義は大まかにいうと
沖縄県では極めて少数派ですが、日本国から独立して一国家としての琉球国を運営したい主張が見受けられます。まともに相手にされていないのが現実ですが、ここでは調子に乗って琉球独立論について常々思うことをくそまじめに記載します。
現代社会での独立国の定義は大まかにいうと
8月7日から連日熱戦が繰り広げられている夏の高校野球ですが、Twitter上で発表した初戦の勝敗予想と本ブログで公開した番付の反省会の記事をアップします。
まずは東日本の番付と初戦の勝敗結果から。
8月7日に開幕した夏の甲子園大会も明日(8月13日/大会7日目)で49代表すべてのチームが出そろいます。リオ五輪そっちのけでできる限り試合を観戦していますが、大会6日目を終了しての感想を調子に乗って記事にします。
本ブログで事前に東日本チームと西日本チームのランク付け(相撲形式)で記事にしました。その反省会は明日以降行うとして、今大会は私学の強豪に対して公立校の健闘が目を引きます。大会6日目までの私学vs公立校の対戦結果を調べると(公立チームは太字表示)、
第98回全国高校野球選手権第5日目の第3試合の嘉手納vs前橋育英の試合は予想外の大差で嘉手納高校が勝利しました。ブログ主は事前にTwitter上で「この試合はガチで予想できない」とつぶやきましたが、正直なところ僅差の接戦で決着がつくと予測していました。
ただし勝者の嘉手納高校と敗者の前橋育英高校とは点差ほどの力の差はありません。嘉手納高校が終始冷静さを保ったことに対して、前橋育英高校はほんの少し冷静さを失ったことが致命的な過失を招いてしまったのです。
しばらく野球ネタが続いていましたが、すこし中断していた本ブログの本題である琉球。沖縄の歴史の記事をアップします。
1372年(建徳3/応永5)に時の権力者である察度(さつど)が中華の皇帝の使者を受け入れて冊封体制に加入して以来、琉球の権力者は中華の皇帝のお墨付きを得て初めて正式な国王となる慣例が定着します。
この慣習の欠点は冊封使の受け入れに莫大な費用がかかることです。冊封使の渡来(御冠船)は一行約500名程度、滞在期間は半年で、その間の滞在費や接待やイベント行事はすべて琉球王府の負担で、その内容は以下沖縄の歴史(比嘉春潮著)から抜粋します。
8月4日の16時に第98回全国高校野球選手権の抽選会が行われました。我が沖縄代表の嘉手納高校は大会5日目の第3試合で群馬県代表チームの前橋育英高校と対戦します。初戦の組み合わせについての感想は後日記載する予定で、今回は東日本のチームのランク付けを発表します。
8月7日に開幕する第98回全国高校野球選手権の出場チームが決まりました。8月4日には抽選会が行われますが、それに先立ってこのブログでも調子に乗って出場校チームのランク付けおよび紹介記事を掲載します。
ランク付けは東日本(北海道、東北、関東、東京、東海、北信越)と西日本(近畿、中国、四国、九州)に分けて、相撲番付形式で発表します。データは各チームの地方予選のスコアだけを集計して、一番いい勝ち上がりをしたチームから順に横綱、大関といった順にランクをつけます。チーム打率や防御率、あるいは注目の選手などの情報はいったんスルーして予選の勝ち上がりだけでランク付けを行うと以下の通りになります。
~琉球藩当時の社会構造 その2~
150年前の琉球王国の状況が今の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)にそっくりだと言うと苦笑いして無口になるケース、あるいは顔を真っ赤にして反論するケースなど人それぞれに反応が異なります。国が貧しかったのは事実も北朝鮮を引き合いに出す程ではとの指摘もあるでしょう。
幕末から明治初期において琉球王国(あるいは琉球藩)が貧しかったのは薩摩藩の長年にわたる搾取が原因だと主張する人もいますが、その説は真っ赤な嘘でむしろ薩摩藩への貢租義務を口実に琉球王府の百姓へ取った政策が結果として社会を極貧の状態に貶めてしまったのです。
~琉球藩当時の社会構造 その1~
1872年(明治5)に琉球国王尚泰は明治天皇により琉球藩主に封じられます。これによって琉球王国も琉球藩としてリスタートするのですが、では当時の社会はどのような状況だったかを簡単に記述します。
~廃藩置県が現代の歴史家に過小評価されている3つの理由 その3~
3つ目の理由は沖縄県人の手で琉球王国時代の負の遺産の解消ができなかったからです。自分たちの手で改革ができなかったコンプレックスは想像以上に強力で、現代でもこの劣等感か解消されているとは言えません。
前節で大日本帝国時代に行った改革がアメリカ軍の占領行政の時代になってようやく効力を発揮したと記載しました。これは日本本土と同一の制度を施行したことによる結果、近代法とは何かを沖縄県人が理解していた故にアメリカ軍の復興政策が大成功を収めたことを意味します。
特に重要なのは所有と契約の概念で、廃藩置県後の琉球人は上級士族も含めて所有や契約の概念がまったく理解できませんでした。土地整理事業(1899~1903)の際に当時の農民たちに土地の所有とは何かを理解させるために沖縄県庁および明治政府側は、各間切に出張所を設けて係員を派遣し、農民たちに土地所有の意義を一から説明して改革を断行します。
前節まで廃藩置県直後の旧慣温存政策について長々と記述しました。本題である「廃藩置県がなぜ現代の歴史家に過小評価されている3つの理由」に戻りますが、1つ目の理由は琉球藩の時代その2で述べた通り当時の琉球人が日本本土と同一の制度を施行することを望まなかったからです。前ふりが長い気がしますが、琉球藩の時代はこの話題を終えてからにします。
前回までに代表的な旧慣制度について説明しましたが、廃藩置県後に明治政府は旧来の制度を温存して沖縄県を統治します。これら措置は当時の時代状況を振り返るときわめて正しい措置です。沖縄県政五十年(太田朝敷著)において著者は当時の清国と日本の力関係が沖縄県における抜本的改革が遅れた理由であると看做して近代化の遅れを激しく批判しています。
実際に廃藩置県から日清戦争前の国力は清国>>>>日本でしたので、太田先生のご意見はごもっともですが、明治政府側が急激な改革を断行することによる社会的混乱を恐れたことも見逃すことができません。2代目県令の上杉茂憲氏(1881~1883)が当時の沖縄県の疲弊に衝撃を受けて抜本的改革を政府に提案しましたが、実際に改革が施行したら悲惨な結果になったこと間違いありません。
前回の記事で琉球王国(あるいは琉球藩)の時代の旧慣(作付制限、土地制度)について説明しました。今回は税制と法律(内法)について述べます。
3.税制:琉球国の税制は尚真王の時代(在位1477~1527)に確立します。その詳細の説明は省きますが、1609年(慶長14)の薩摩入り後に一部税制が改正されます。納税単位を個人から村に変更したのです。
税制の変更は前述した地割の制度の本格運用と密接に関連していますが、ただし税率に関しては各間切の間で不均等な状態を改正することはありませんでした。薩摩に収める貢租に関しては統一ルールがありましたが、琉球王府および間切や村を所有する地頭あるいは地方役人に対する課税は各地方によってバラバラで、そのため税率に著しい不均等が生じてしまったのです。
~旧慣温存について~
琉球・沖縄の歴史において1879年(明治12)の廃藩置県後の旧慣温存政策は何かと批判的に記述される傾向があります。では「当時の旧慣とは何ぞや?」と問われて即答できる人はあまり多くはいないでしょう。現代の歴史教科書に詳しく記載していないのが原因ですが、ここでは当時の代表的な旧慣について説明します。
旧慣温存とは琉球王府の時代に施行された政策、具体的には土地制度や税制などを指しますが具体的な例を4つほどあげます。