前回の記事は予想の斜め上を行く反響がありました。その記事は11月1日に掲載したのですが、公開済み10時間で、当ブログのアクセスランク2位を達成するという謎現象が発生しました。”投稿者の親川さんって一体何者” という突っ込みは取り敢えず置いといて、今回から少し真面目に琉球・沖縄の歴史における差別からの解放の概念について説明します。
とあるFacebookの投稿に対して思ったこと その1
先日 Facebook をちら見していたときに気になる投稿がありました。日時を確認すると、10月19日、投稿者は親川志奈子さんで、この時点で彼女の経歴は寡聞にして知りませんでした。10月18日の高江における機動隊員の土人発言に対する投稿のようです。全文を書き写しましたので是非ご参照ください。。
*彼女が日本国からの独立を志向している件はあとから知りました。琉球民族独立総合研究学会の一員です。
1913年(大正2)のユタ裁判 その10
今回はなぜユタを信じるか(友寄隆静著、月間沖縄社)をベースに、ブログ主が当時の琉球新報に記載された記事もチェックして計4回の公判を掲載しました。
1913年(大正2)のユタ裁判 その9
前回の続きです。本件とは無関係ですが、息抜きにお笑いポーポーのカマド体操の動画をどうぞ。
1913年(大正2)のユタ裁判 その8
ここまで延々と1913年(大正2)のユタ裁判の公判記事を掲載しました。第3回公判で被告仲地カマドを拘留20日の刑に処す判決が下され一件落着と行きたいところですが、そこは往生際の悪いカマドさん、区役所の判決を不服として地方裁判所に控訴したため、当時の沖縄社会はまたまた大騒ぎになります。
本日から1913年3月17日行われた那覇地区地方裁判所での第二審公判の内容を掲載します。
10月26日、〈機動隊 差別発言を問う〉沖縄からアジェンダを、安冨歩さん(東大東洋文化研究所教授)の記事を読んでおもったこと。
10月18日の沖縄県東村高江において機動隊員が現地活動家に対して「土人」と吐き捨てた件に関する記事やニュースを数多く読みましたが、10月26日の琉球新報の掲載された安冨歩さんの記事ほど面白いものはなかったので今回掲載させていただきます。まずは全文をお読みください。
1913年(大正2)のユタ裁判 その7
しばらくユタ裁判の記事のアップをサボっていましたが(汗)、今日から第3回公判の記事を再開します。 その前にこれまでの公判のあらすじを説明しますと 、
10月18日、沖縄県東村高江における機動隊員の「土人発言」について思ったことの捕足
10月18日、沖縄県東村高江における機動隊員の土人発言についての補足です。この土人という発言は沖縄県民にとってどのような侮辱的な意味を持つのか、前回記事とは違ってすこし真面目に考察します。
1879年(明治12)に琉球藩は沖縄県に鞍替えします。その後多くの日本人たちが商用あるいは公務として来沖するのですが、実は当時の日本人たちは現地の住民に対して土人と呼ぶのが一般的だったのです。一例をあげると沖縄県政五十年(太田朝敷著、1932年刊行)には以下の記載があります。(旧漢字はブログ主にて訂正すみ)
2016年10月22日、GRS護佐丸リラーニングサポートでのスピーチ原案
去る10月22日、GRS護佐丸リラーニングサポート内で現代沖縄における歴史認識について簡単なスピーチをおこなう機会がありました。今回はその原案をアップします。ブログ主が現時点で感じている歴史認識の問題点をまとめた内容ですが、2年あるいは3年後にこの草稿を読み返してどのような反応をするか今から楽しみです(笑)。
題目
あいさつ
1.現代沖縄における歴史のグラウンドデザインとは何か?
2.現代沖縄の歴史認識はいつから定着したか?
3.現代沖縄における歴史認識の問題点。
4.歴史認識の問題を解決するには?
10月18日、沖縄県東村高江における機動隊員の「土人発言」について思ったこと。
まずは沖縄タイムスがネット上で公開した動画をどうぞ。
上記の動画からも分かる通り、起動隊員は明らかに「土人が(怒)」と捨て台詞を吐いています。動画でしっかり撮影されてしまったため、言い逃れができない過失であることは間違いありません。
1913年(大正2)のユタ裁判 その6
前回の公判で城間ゴゼイさんの証言のよって仲地カマドさんはピンチに陥ります。ロールプレイングゲームに例えるとクリティカルヒットを食らった状態です。しかもそれだけではなく、第三回公判においてもう一人の主人公である具志堅マウシさん(49)が証人として出廷することで、カマドさんは絶体絶命の状態に追い込まれます。では具志堅マウシさんが殺る気満々で登場した1913年(大正2)3月4日に行われた第三回の公判の記事をアップします。
1913年(大正2)のユタ裁判 その5
今回は1913年(大正2)3月1日に行われた第二回の公判の全文をアップします。
証人城間ゴゼイの証言次第で運命が決まるユタ側では、かたずを呑んで待ち受けた。ゴゼイは、深く心に決するものがあるようで、判事の偽証罪についての注意にもキッパリ誓って訊問に応じた。
1913年(大正2)のユタ裁判 その4
前回までに記述した第一回の公判の内容をまとめると
仲地カマドさん
1.2月17日に具志堅マウシさん宅を訪問したことは認めるも、容疑内容については「覚えていません」。
2.自分はユタをする身分ではない。
3.祈祷は自分のために行うもので、他人に対して行ったことはない。
1913年(大正2)のユタ裁判 その3
1913年(大正2)2月27日の那覇区裁判所で行われた第一回の公判の続きです。
長野判事 被告が警察で自白したことによれば、東町の大火後、具志堅マウシ宅に行き、西、東町の人たちが上波之上、下波之上、及び天尊小堀に祈祷するという話があり、また泉崎の小娘が、人々に神の宣託を授けているということだが、自分の所にもこの間観音様が現れ、世界の宝は何と何かと質問されたので、自分は知らないと答えたら、神様は、世界の宝は火と水じゃ、世間の無知な者たちは、天に神があることは知っているが、知の神を知らない。地の神は、天の神より一層大切に拝むべきもので、人間の家も草木も、一切の作物も、すべて地の恵みで生まれているのである。然るに世人はそれを知らずに、今まで地の神をおろそかにしてきたのは不都合である。何時大難が起こるか知らないぞ、との御告げがあったというが、本当ですか?
1913年(大正2)のユタ裁判 その2
本日から1913年(大正2)2月27日より、計4回行われたユタ裁判について記述します。登場人物や時代背景などできる限り説明しつつ、友寄隆静氏の口語訳をベースに公判の全文を掲載します。