前回の記事において、昭和25年から30年にかけての人口急増が社会に及ぼした影響について説明しました。昭和20年(1945)の沖縄戦直後の人口が推定で35~40万で、昭和15年の沖縄県の人口が57万人ですから、戦争の結果ものすごい人口の減少を経験していることになります。
真栄原2丁目(旧真栄原社交街)に行ってきたよ
唐突な感じもしますが、散歩企画として真栄原2丁目(旧真栄原社交街)の現在の様子をアップします。キッカケは佐野眞一さんの『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史(上)』を読んで、懐かしさの余り現在廃墟と化した社交街を散策してみようと思いついたことです。
真栄原社交街の歴史は機会があれば後日紹介するとして、この街は「新町」の名称で有名でした。昔はバス停も「新町入り口」でしたが、現在は「第二真栄原」になっていて、「真栄原社交街」の看板も撤去されています。ではブログ主が撮影した現在の真栄原2丁目をアップします。
琉球新報「論壇」 本質捉えきれない日本人~知識層に広がる思考力低下~
2017年6月19日の琉球新報の「論壇」に掲載された記事全文をアップします。投稿者は与那嶺恵子さん、大学教員との記述があります。
閑話 人口の増加が沖縄社会に与えた影響を真面目に考えてみよう アメリカ世 その1
前回の記事において、大日本帝国時代(1879~1945)における全人口に対しての若者人口の比率(14~24歳)の増減が沖縄社会に与えた影響について簡単に記述しました。日下先生の著作『大人の国のための戦争学』の中に、「人間も人口が増えると、極端な人が出てくる。普通なら滅びるが、そういう人が適応しやすいように世の中が変われば生き残る」との記載がありますが、大日本帝国時代の沖縄県がまさにその通りで、極端な人物の象徴は伊波普猷先生(1867~1947)で間違いないでしょう。その他にもこの時代は個性的な人材は数多く輩出し、彼らが社会に与えた影響は極めて大きいものがありました。
いわば「異端や規格外の存在が社会全体を大きく動かす」ことができたのです。これは尚家が支配していた琉球国の時代にはあまり見られない現象です。唯一の例外は蔡温(1682~1761)でしょうか。今回は、アメリカ世(1945~1972)において人口の増減が社会にどのような影響を及ぼしたかを考察します。
突撃グルメレポート~キロ弁 那覇店にいってきたよ。
最近真面目な記事の投稿が多い影響でしょうか、本日は何となくゆる~い記事を書きたくて那覇市泊にある「キロ弁」への突撃レポートを掲載します。ご了承ください。
宮古島の無名エリートが成し遂げた快挙
1年ほど前(2016.06.17)に元八重山商工の監督であった伊志嶺吉盛さんの勇退について記事を掲載しました。奇しくも今回は宮古島在住の無名エリートが成し遂げた快挙について掲載します。その人の名は知念健次さん(54)、現在宮古工業、宮古総実でボクシングの指導をされています。
閑話 人口の増加が沖縄社会に与えた影響を真面目に考えてみよう 大日本帝国の時代編
前回の記事において、日下先生が唱える「15歳から25歳の若者が全人口に占める比率が15パーセントを超えると、その国は戦争をするのである。何らかの理由で10パーセント以下に下がると、戦争は止む」の仮説を、ブログ主が実際に沖縄県の人口統計をチェックして検証しました。
統計の都合上「14歳から24歳の若者人口が全人口に占める比率が15パーセントを超えると沖縄社会に何が起こったか」を考察しました。明治12年以降、沖縄は独立国家ではなく一地方行政単位なので、戦争ではなく若者比率が急上昇すると社会にどのような影響を及ぼしたかを調べると、実に興味深いことが分かりました。先ずは明治13年から昭和にかけてブログ主が纏めた人口統計表をを貼り付けします。
大人の国のための戦争学 – 日下公人
第二章「好戦的な民族」と「平和的な民族」からの抜粋です。人口論から戦争について考察した部分を掲載します。
閑話 人口の増加が沖縄社会に与えた影響を真面目に考えてみよう
先日ブログ主は『犯罪実話物語 沖縄警察五十年の流れ』(比嘉清哲著、平成9年刊行)および『大人の国のための戦争学』(日下公人著、2002年刊行)を読んでいた際に、実に奇妙な一致点を見つけましたので紹介します。
本土と沖縄の「保守」の違いについて
本日フェイスブックの玉城有一郎先生の投稿に対して次のような返信がありました。
玉城有一郎 「再び問う。保守とは何か?私自身の為に。」
Akira Chinen 「僕は沖縄生まれの本土育ち。最近沖縄に戻って来ました。沖縄で保守を名乗る人たちは本土の保守とは少し違う沖縄ナショナリストだと感じます。根っこには「沖縄は日本と違う国」だという意識がどこかにあるのではないかと分析しています(中略)。
キャンプ・シュワブゲート前で女性活動家が負傷した案件について
本日朝、ブログ主が6時半起床後にフェイスブックをチェックした際、実に気になる投稿があったので掲載します。投稿主は横山知枝さん、内容は「辺野古ゲート前で機動隊の暴力により2名が救急搬送されたって聞いたけど、そのういの1名はそのまま入院したって?……。」の物騒な書き込みでした。投稿のスクリーンショットを保存しましたので掲載します。
明治29年4月20日の女子講習科の入学試験
今回はブログ主が確認した限りですが、おそらく歴史上初の女子に対する選抜入試試験の内容を紹介します。
琉球・沖縄の歴史において女子が小学校へ入学したのは明治18(1885)年ですが、それから11年後の明治29(1896)年に女子講習科(速成の女子教員養成学校)の選抜入試試験が行われます。その内容が非常に興味深いので今回ブログで公開します。
現代社会の古典離れを憂うお話 その2
現代社会において、「若者の○○離れ」という言葉があります。マスメディアが作り出した言葉のようですが、代表的なのが「若者の車離れ」という語句ではないでしょうか。実は古典も当てはまります。昨今に出版された沖縄本を参照すると、明らかに古典の知識が欠けているなと思われる書籍が非常に多いのが気になります。
現代社会の古典離れを憂うお話 その1
先の5月22日に組織犯罪処罰法改正案が衆議院で可決されました。その際にネット上で話題になったのが現参議院議員の小西ひろゆき氏の亡命問題です。
琉球見聞録 – 序
今回は史料として『琉球見聞録』の序文を掲載します。歴史的に有名な伊波普猷先生の「琉球処分は一種の奴隷解放也」の論文が有名ですね。琉球見聞録の著作者である喜舎場朝賢氏の序文は意訳等はなしでそのまま掲載します(伊波先生の論文は旧漢字を訂正しました)