俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その1

去る(平成29年)12月13日に起こった飛行中の米軍へリの部品が普天間第二小学校へ落ちた事件に関連して、ブログ主が普天間第二小学校の歴史を調べてみましたので掲載します。普天間第二小学校の歴史(とくに移転問題)に関しては裏づけなしの噂話が多すぎるので、今回は公開された情報のみで歴史を振り返ります。

普天間第二小学校の分離開校は我が宜野湾市では初のケースで、その理由は人口の急増です。そのため昭和37年(1962)の市制施行からさかのぼって学校の歴史を鑑みるのがよいと考えます。

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瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと~学歴詐称の疑い

ここ数日間、ブログ主は昭和20年から25年にかけての瀬長亀次郎さんの経歴をチェックしていましたが、沖縄公文書館が Web 上で公開している文書のなかに面白い資料を見つけましたので掲載します。

琉球政府文書 – 政党に関する書類(1)結成届け、綱領、会計報告のページで、沖縄人民党関連の資料が公開されていますが、その中の 108㌻以降、1949年11月2日付、沖縄人民党中央委員会が沖縄知事志喜屋孝信(しきや・こうしん)宛てに提出した『政党に関する報告』の中の役員名簿を見たときに、ブログ主は「えっ??」と思った記述がありましたので、画像を貼り付けます。

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12月13日の米軍ヘリからの部品落下事件について

先日の13日10時ごろ、我が宜野湾市の普天間第二小学校の校庭グラウンドに米軍ヘリの部品が落下して大騒ぎになった案件、14日の沖縄2紙では一面トップで大々的に報道しました。2日経過して様々な報道に接してようやく冷静になったところで、今回の事件についての記事を掲載します。

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史料 又吉康和氏の「自治尚早論」

今回は又吉康和(またよし・こうわ 1887~1953)氏の「自治尚早論」の全文を掲載します。先ず又吉氏のプロフィールを『沖縄大百科事典』から抜粋しますのでご参照下さい。

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史料 忘れられた島 – 沖縄

今回は昭和24年(1949)12月3日に『うるま新報』に掲載された記事「タイム誌記者の見た占領下四年後の沖縄」の全文を掲載します。昭和24年10月に沖縄に赴任したジョセフ・R・シーツ少将の時代になって初めて米人記者が沖縄を自由に取材することが出来、その時来島した記者が「忘れられた島 – 沖縄」のタイトルでタイム誌に掲載したものになります。

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史料 松原多摩喜氏の回顧録から

ここ最近ブログ主は、瀬長亀次郎さんに関する記述をいろいろ調べているうち、面白い情報をいくつか発見しました。今回アップするのは瀬長さんの七高時代の恩師、松原多摩喜氏の回顧録『七高在職十七年の好ましくない思い出と自身の失敗の数々』から史料を掲載します(この文章は安仁屋政昭著 『沖縄の無産運動』 からの抜粋です)。

この文章は、おそらく瀬長さんが那覇市長を追放され、その後民連(民主主義擁護連絡協議会)で議長を務めた1958年あたりに書かれたと思われます。七高時代の瀬長さんは、アカの道に進んだことが父親にばれて、送金を停止されて大変困っていました。そこで現在の窮状を当時の担任であった松原氏に相談します。そのような背景があった点を頭に入れて松原氏の回顧録をご参照下さい。

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直八(しんはち)の時代

先日28日に、沖縄県議会が「在沖米海兵隊員による飲酒運転死亡事故に関する意見書」を修正可決しました。米人であろうが沖縄県民であろうが、飲酒運転による死亡事故は極めて悪質であり、県議会がなんらかの抗議決議を可決するのは当然です。だがしかし、この案件と「在沖米海兵隊の早期の国外、県外の移転を求める」こととは別問題です。なぜなら仮に米海兵隊が県外、国外に撤退しても、代わりに沖縄県民が飲酒運転で悪質な事故を起こすからです。

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沖縄における旧革新勢力とその支持者が堕落した最大の理由を考えた結果……

ここしばらくブログ主は瀬長亀次郎さん関連の史料をあれこれ調べていました。たしか故谷沢永一さんのご指摘でしたが、「その人が何をしていないか(あるいは何に対して沈黙しているか)を調べると、本質が見えてくる」との方針で記事を掲載しましたが、その過程で1つ面白いことに気がつきましたので、この場をかりて説明します。

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瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと~高嶺朝光さんの証言

今回は高嶺朝光(たかみね・ちょうこう)さんの著書『新聞五十年』から、戦前の瀬長亀次郎さんに関する記述を掲載します。瀬長さんはたしか昭和6年(1931)に共産党に入党、本土で労働組合活動中に検挙され、3年の懲役刑を受けます。そのうち1年は沖縄刑務所に服役して、出所後は県の工業指導書で蒔絵職人として働きます。

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瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと~恩知らずカメジローの巻

前回の記事で瀬長亀次郎さんが中国戦線から復員した昭和15年(1940)以降、平良辰雄さん(1892~1969)のお世話になっていたことを記述しました。その縁があって、沖縄戦終了後の捕虜収容所の時代(田井等)においても瀬長さんは平良辰雄さんの下で再び働くことになります(平良辰雄さんは収容所の市長に就任、瀬長さんは庶務課長として勤務しています)。

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一に感情、二に政治利用、三、四が無くて、五にお金

先日とある Facebook 上で「沖縄あるある、一に感情、二に政治利用、三、四が無くて、五にお金」との投稿がありました。沖縄県民の一面を鋭く指摘した内容でブログ主は素直に脱帽した次第ではありますが、23日の地元新聞の記事において、(二に政治利用を実感させる)実に不愉快にな気分になった記事がありましたので紹介します。

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カリスマの担い手としての瀬長亀次郎さんの役割

前回、瀬長亀次郎さんが大東亜戦争の際に “翼賛壮年団” に加入していた件について記述しました。この事実は瀬長さんの回想録や『沖縄人民党の歴史』あるいは瀬長フミさんの回想録『熱い太陽のもと激動の島に生きる』など関連著作には一言も記述がありません。つまり黒歴史として抹殺されているのですが、瀬長さんの生き様を振り返るとやむを得ないかなと思います。その理由は彼が “カリスマ的指導者” として人民党を率いていたからです。

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瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと

2017年8月12日に佐古忠彦監督、TBSテレビが製作したドキュメンタリー『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』が公開されました。ちなみにブログ主はこの映画は未だ見ていませんが、その間に『瀬長亀次郎回回想録』など瀬長さん関連の書籍をいろいろチェックしていました。

瀬長さんのキャッチフレーズである「不屈」は人民党が結成した昭和22年(1947)から日本共産党に合流する昭和48年(1973)の間に好んで使っていた言葉で、現在もそのイメージが強いのですが、ブログ主がいろいろ調べているうちに瀬長さんが決して口外しないワードが複数あることに気がつきました。それは現時点で確認できたのが3つあって

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