琉球・沖縄の歴史上最も偉大な女性の思い出話

先日ブログ主は沖縄県立図書館において、昭和7(1932)年に琉球新報に掲載された『あの頃を語る』の記事を閲覧中に、ずっと探していた安村つる子女史(1881~1943の思い出話を見つけることができました。安村つる子(旧姓久場ツル)さんは明治14(1881)年首里にうまれ、沖縄初の女性教員として首里尋常高等小学校に勤務、琉球・沖縄の歴史上初めて学業によって身を立てた女性です。実はそれだけではなく、安村女史は

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大人の対応

平成29(2017)年12月9日の産経ニュースから始まる一連の誤報案件で、ブログ主は前の記事において「実は今回の案件における産経側の対応はトラブルシューティングの見本ともいえる素晴らしいもので……」と記述しました。今回はこの点について少し説明します。

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必要以上に相手を刺激してしまった結果…

平成30(2018)年2月8日、産経新聞は『沖縄米兵の救出報道 おわびと削除』の見出しで、「12月9日に配信した『危険顧みず日本人救出し意識不明の米海兵隊員 元米軍属判決の陰で勇敢な行動はスルー』の記事中にある「日本人を救出した」は確認できませんでした…(中略)記事は取材が不十分であり削除します。記事中、琉球新報、沖縄タイムスの報道姿勢に行き過ぎた表現がありました。両社と読者の皆さまにおわびします」の検証および謝罪記事を1面(と3面)に掲載しました。

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史料 – ウルマ新報誕生の経緯(島清さんの証言)

今回は、瀬長亀次郎さんの足跡をチェック中に発見、『琉球新報80年史 – 新聞にみる沖縄の世相』の通史篇に記述されていたウルマ新報誕生の経緯を掲載します。それはウルマ新報初代社長島清(しま・きよし 1908~1997)さんの証言で、非常に興味深い内容になっています。

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琉球共和社会憲法C私(試)案 – 全文

今回は昭和56(1981)年5月15日起草、そして『新沖縄文学 6月号(48)』に掲載された、「琉球共和社会憲法C私(試)案」の全文を掲載します。なお解説(という名の突っ込み)は後日改めて述べることにして、先にこの私案が起草された背景について説明します。

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大人の事情

前日(2月4日)行われた沖縄県名護市の市長選挙は即日開票が行われ、自民・公明両党などが推薦した渡具知武豊氏が、現職の稲嶺進候補を破って初当選しました。 

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第46回沖縄県高等学校野球部対抗競技大会の結果

去る平成30(2018)年1月6日、毎年恒例の沖縄県高等学校野球部対抗競技会が開催されました。沖縄県高等学校野球連盟の公式ホームページに結果が公表されましたので、その情報を参考に当ブログでは過去4年間にさかのぼっての結果をアップします。

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沖縄県民の欠点とは(目的と手段の入れ替わり)

以前、当ブログにて翁長助裕さん(現沖縄県知事の兄・故人)の論文を取り上げました。その際にブログ主は沖縄県民の大欠点の1つは“テーゲーとシムサの発想にある”と指摘しましがが、今回は別の視点から現代の沖縄県民が抱える欠点について調子に乗って取り上げてみようと思います。

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理論と理屈の違い

先日、沖縄県立図書館(にしか貯蔵されていない)の『又吉康和追悼録』を始めて読んだところ、面白い話を見つけましたので紹介します。追悼録には千原繁子さん(沖縄初の女性医師、1898~1990)の追悼文が掲載されていましたが、その中に又吉さんが千原さんを諭す箇所がありました。

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史料 昭和21年の瀬長亀次郎さんの消息

今回は昭和21(1946)年の瀬長亀次郎氏の消息を追跡します。このとき瀬長さんは「田井等市の総務課長から糸満市地方総務(市長職)の仕事をやっていた(瀬長亀次郎回想録)」、さらに「ウルマ新報」に入社、そして社長に就任、そして沖縄諮詢会の諮問機関として発足した沖縄議会の議員に任命されています。大雑把に言えば地方公務員&会社社長&議員を兼任しているという、いささかややこしい経歴ですが、そのあたりが戦後の混乱期を象徴しているような感じがします。

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【暫定】琉球王国時代のぐう蓄エピソードで打線を組んでみた

1年ほど前に、当ブログで琉球藩の時代のクズエピソードについて言及しました。今回は復習の意味も兼ねて、尚家の琉球国の畜生&クズエピソードで打線を組んでみました。あくまで現時点で確認できた限りの情報で大雑把に纏めましたので読者のみなさん是非ご参照ください(後日新たなエピソードを見つけたら追加訂正します)。

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史料 浦崎康華氏の「新沖縄建設大綱(私案)」

今回は戦後史料の一つとして、浦崎康華(うらさき・こうか)氏の「新沖縄建設大綱(私案)」を掲載します。その前に「浦崎康華って誰?」と突っ込まれそうですが、この人物は沖縄人民党の初代委員長で、人民党の宣言、綱領の原案を作成したことで知られています。

生まれは 明治30(1897)年那覇の泊、長年ジャーナリズムに携わってきた新聞人で戦時は国家総動員事務も担当しています。『新沖縄建設大綱(私案)』が作成されたのは沖縄戦中の昭和20年5~7月の間で、浦崎氏が捕虜として収容されていた高江洲市で作成されました。今回は昭和58(1983)年に刊行された「戦争と平和の谷間から」 291~303㌻ に掲載されていた全文を抜粋しました。読者の皆さん是非ご参照ください。

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