本日は平成30年5月22日、ためしに当ブログの開始日を再確認したところ平成28年5月19日スタートですので、なんと地味に3年目に突入していることがわかりました。そうなると何か“記念企画”なる記事を提供したいところですが、残念ながら全くといっていいほどアイデアが浮かんできません。そこで今回は無理に運営3周年突入企画など行わずに平常運転で記事を掲載します。
無駄に高級感溢れるポークたまご定食を見つけたお話
先日ブログ主は、宜野湾市大謝名にある「鳥と卵の専門店 – 鳥玉」に夕食を食べにいったところ、ポークたまご定食を提供していることに気がついて試しに注文してみました。ちなみにポークたまご定食は(ネット上の拾い画像ですが)こんな感じの大衆的な定食で、ブログ主の記憶では平成に入った辺りから(沖縄の)食堂で提供されるようになりました。
【再考】 キャンプ・シュワブ誕生の経緯 – その4
今回は、“キャンプ・シュワブ誘致説”の根拠の一つでしょうか、平成4年(1992年)9月18日の沖縄タイムスに連載された『弁務官周辺の秘話 – ジョージ・サンキ語学将校の証言』の全文を抜粋します。読者のみなさん是非ご参照ください。
小渡三郎さんのエピソード
唐突ですが、なんとなくゆるい記事を書きたいとの思いつきから、今回は小渡三郎(おど・さぶろう)さんのエピソードを掲載します。ちなみにこの人、追悼録を読むと打線が組めるほどエピソードが豊富ですが、今回はその中のひとつで昭和19(1944)年に海軍兵学校を受験するために鹿児島で起こした事件を紹介します。
対談 – 復帰の“意味”を追求する
本日は46回目の復帰の日、そこでブログ主にて当時の新聞をチェックしたところ、実に興味深い記事を発見しましたので今回全文を掲載します。昭和47年5月15日 – 琉球新報復帰特集号の第2集に佐久川政一さん(当時沖縄大学学長)と復帰協事務局長との対談が掲載されていました。佐久川政一という極めて香ばしい名称に心魅かれて記事をチェックしたのですが、当時の復帰協(祖国復帰協義会)と革新系知識人の考え方を推察することができる貴重な内容となっています。
ただし予備知識なしで読むと意味不明なところもありますので、捕捉として、①対談者が「(戦後)民主主義=反ファシズム」と考えている、②冷戦は単なるイデオロギー闘争である、③そして日本国憲法を遵守することが戦前の大日本帝国の政治体制との決別と考えていることを念頭におけば対談の意図が理解できると思われます。読者の皆さん是非ご参照ください。(主体という言葉でちょっと吹いてしまうのは内緒でお願いします)
【再考】 キャンプ・シュワブ誕生の経緯 – その3
今回は昭和31年12月の土地接収に関する記事を掲載します。前述したとおり、昭和30年(1955)年の2度の接収予告では比嘉村長を始め久志村の地主は反対の立場でした。ただし3度目にあたる昭和31年12月20日の新規接収予告においては、「契約を前提」として話がすすみ、そして同月28日にスピード契約という異例の展開となります。
広告とヌード写真
ここ数日キャンプ・シュワブ関連で昭和30年前後の新聞をチェックしているのですが、やはり時代というかなんというか映画等の広告が現代基準ではありえないほど“エグい”描写になっています。具体的にいえば“よい子が見てはいけない広告”が目立つのですが、この件に関して昭和31年(1956年)12月25日の琉球新報にコラムとして掲載されていました。読者のみなさん、是非ご参照ください。
【再考】 キャンプ・シュワブ誕生の経緯 – その2
前回記事において、昭和31年(1956年)12月22日の沖縄タイムスの記事から比嘉久志村長の談話を掲載しましたが、今回は同日の琉球新報の記事を掲載します。
【再考】 キャンプ・シュワブ誕生の経緯 – その1
以前に当ブログで『当間重剛回想録』を参照に、“キャンプ・シュワブ誕生の経緯”の記事を掲載しました。今回は新に史料を入手できましたので、誕生の経緯について再考します。ちなみに何故史料を集めたかといえば、単純にキャンプ・シュワブは地元が“誘致”したのか、それとも“新規接収の応じた”のか気になったからです。
まず調べたのが、土地連(沖縄県軍用地等地主連合会)はこの案件をどのように記載しているのかです。理由は当時の土地問題における「一括払い反対」「新規接収反対」の運動の中核が土地連だったからです。該当部分を抜粋しましたので、是非ご参照ください。(ちなみに桑江朝幸さんの著書を読むと、この案件に対し明らかに不快感を抱いています)
恒産なくして恒心なし
ブログ主はできる限りの時間を設けて、毎日古典を読むことを日課つけています。以前当ブログにおいて“現代社会の古典離れを憂うお話 その2”と題して西銘順治さんのコラムを掲載したことがあります。記事として掲載した以上、古典の再読に取組まなければならないと思い、先ずは四書 (大学、論語、孟子、中庸)の通読を試みている最中です。
実際に古典を再読した後に(歴史)史料や新聞記事を読むと、いままで見えてこなかったものが見えてきたりして、これまで地道に取組んできた古典の再読はムダではなかったと実感しつつ、今回は孟子 – 梁恵王章句上から下記の一文を抜粋します。有名な諺ですが、読者の皆さんご参照ください。
史料 昭和24年の瀬長亀次郎さんの消息
今回は昭和24年(1949年)の瀬長亀次郎さんの経歴についての史料をアップします。瀬長さんは昭和23年(1948年)まで沖縄民政府の又吉康和副知事、米軍政府の情報部長ハウトン大尉の庇護のもと、沖縄議会の議員および新聞社の社長として精力的に活動します。
もともと米軍政府は「うるま新報」が人民党幹部で占められていることに対して快くは思っていませんでした。「公平さを欠く」というのがその理由ですが、ハウトン大尉が情報部長の間は黙認されます。沖縄議会においても瀬長さんが又吉康和さんに忠実である以上、彼の地位は安泰でしたが、昭和24年(1949年)になると状況が一変します。
閲覧注意
すでに Facebook 上ではアップした平良研一さんの「論壇」を改めて書き写して当ブログに掲載します。まずは平成30年5月3日付けの投稿をご参照ください。
「喜舎場朝信を救う会」について調べてみたよ
先日(4月29日)に公開した記事、“沖縄ヤクザ関連の蒐集したエピソードを適当にならべてみた”がブログ主の予想の斜め上を行く反響でしたので、今回も調子に乗って沖縄ヤクザ関連の記事を掲載します。前回の記事において(個人的に)一番衝撃だったエピソードに、昭和38年2月に「喜舎場朝信を救う会」が開催された件がありますが、実際に当時の新聞を調べたところ本当にあったので、今回は書き写し分を掲載します。(注、月間沖縄では開催日が2月13日とあるが、琉球新報では2月14日午後3時となっています。開催場所がコザ市照屋の区民館(公民館)であることは一致。)
理性を失った人たちの姿
ここ最近ブログ主は“教公二法”関連の史料集めを行っています。不定期に図書館等に通って当時(昭和42年)の新聞や関係著書をチェックしているのですが、その中に興味深い記事がありました。教公二法に関しての詳細は後日アップすることにして、今回は昭和42年2月25日の琉球新報のコラムの書き写しを掲載します。
沖縄ヤクザ関連の蒐集したエピソードを適当にならべてみた
唐突ですが、今回は沖縄ヤクザ関連のネタを適当に並べてみました。実は琉球王国および戦前の沖縄には現代のようなヤクザ組織はありませんでした。沖縄戦後、アメリカ世になって初めてアンダーグラウンドの世界を仕切る反社会的な集団が誕生します。この点は琉球・沖縄の歴史を語る上で重要なので、ブログ主は不定期ですが当時の新聞などを確認して情報を収集しています。大雑把にいって昭和27(1952)年から昭和42(1967)年ごろまでのエピソードを思いつくまでに並べてみました。是非ご参照ください。
※令和05年01月28日、サイト内整理に伴い、一部加筆・修正済。訂正を加えた分は青地で表記しています。