先月、当ブログにてセニョール・ターコのタコライスを紹介しましたが、マヨネーズが投入されたタコライスが“しに美味かった” ので、今回は別店舗のタコライスで試してみようと思いつき、我が宜野湾のキングタコス長田店のタコライス(チーズ野菜)をテイクアウトしてきました。
尚泰候の決断 その3
(続き)明治8年(1875)年9月7日(新暦)、明治政府、とくに来琉した松田道之との交渉過程で「事ここに至っては」の状況であると判断した藩王尚泰は、三司官に対し明治政府からの「御達書」を遵奉する旨を伝え、三司官側からも特に反対意見がなかったため、那覇へ使者を遣わす手はずを整えるよう命じます。
この日の騒動については「琉球見聞録」と「尚泰候実録」では一部記述が異なる部分はありますが、ブログ主なりにまとめてみると、
尚泰候の決断 その2
(続き)今回は尚泰候の決断について、予備知識として藩王時代の明治8年(1875)9月(新暦)の騒動について言及します。彼は有事の際に断固たる判断ができない為政者のイメージが強いのですが、実は例外的に “決断” を下したが故に酷い目に遭いかけた痛い過去があるのです。
その後の藩王は廃藩置県の明治12年(1879)まで毛利敬親の如く “そうせい候” の状態になってしまいますが、ブログ主はそれ故に明治29年(1896)の「断固たる決断」には強い違和感を覚えるのです。
尚泰候の決断 その1
先日ブログ主は過去記事をチェックした際に、史料の読み違いによる記述ミスに気が付いたので、その点についての説明と、それに関して “尚泰候の決断” と題した新たな記事を公開します。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その30
(続き)また、むこうはまともな英語で沖縄へ来たんですが、私とつき合っている間にブロークンイングリッシュになってしまい、本人が気づかないということもあります。それで他の人から「おいマーク、おまえ、What kind English you speaking(おまえどんな英語を使っているの?)といわれたりするわけです。「Why? (どういうこと)」、「Your 〔language〕 is fany? You think so? (あなたの言葉は変だよ、そう思わないの)」という具合に、私と話したから、アメリカに帰っても、こうしてブロークンイングリッシュにしないと話せなくなった人がたくさんいます。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その29
□音楽への取り組み方 普通のミュージシャンは、あーしよう、こうしようと練習をやるんですけど、私の場合はやらなさすぎるんじゃないかな。私の場合は、なんかやっても無理というか、練習やったらその練習したものが崩れていくから、「あんたはもう練習しない方がいい」とみんなからいわれるんです。
プラザハウスで豪遊した結果www
先月16日、ブログ主は熊本からの来客をエスコートし、その際にセニョール・ターコで夕食を共にする機会がありました。ちなみに前回訪れた際は、マヨネーズ入りのタコライスが衝撃的な旨さでしたので、今回も〆で注文しつつ、改めて気になるメニューを一気に食してきました。B級グルメ好きな読者のみなさん、是非ご参照ください。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その28
□中野サンプラザでコンサート これは東京でデビューするときの話です。
一九七七年八月にはじめて「中野サンプラザ」でデビューコンサートしたとき、蛇を食いちぎるバンド、ステージに女の人を上げてレイプするバンドとか、男のチンチンを切るバンドとか、鼻からタバコ、ビールいろいろ、とにかくたいへんだといって、ハードロックの超ハードロック、日本、東京上陸と週刊誌にも報道陣にもう騒がれ過ぎるくらい騒がれました。
皇室と沖縄社会とタブー
今月12日ごろ、「沖縄青年同盟」の活動家の訃報ニュースが県内2紙に掲載されていました。彼らが起こしたとされる「国会爆竹事件」など、彼らの活動そのものには「今更どうでもいい」との感しか湧きませんが、沖縄2紙がわざわざ活動家の訃報を、しかも追悼文(沖縄タイムス)まで掲載していた事実には強い興味を覚えました。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その27
(続き)すると、マネージャーは「いや上がってる」と怒っているのです。それで私も機械を見て上がっていたので「私じゃない、彼(ミキサー)。彼にいってよ、僕にいわないで。何でいつも僕の顔を見ていうのあんた。僕が大きくしたわけじゃないよ、大きくしたのはあの人」というと、
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その26
□軍のブラックリストに載る 私たちがコンディショングリーンの時に、日比谷野外公会堂でコンサートをやったのは、復帰後じゃないですかね。
私はヤマト(本土)で考えられないようなことをやっているから、いろんなことやってきて覚えてないですよ。私は那覇市民会館や内地の日比谷(野外公会堂)での演奏はだめなんです。使用許可がおりないですよ。
南城市長のセクハラ疑惑に関する報道の考察
今月4日の沖縄タイムスをチラ見した際に、気になる内容のコラム(大弦小弦、記者の眼)が掲載されていましたので、ためしに全文を写本してみました。ブログ主は特に関心を覚えなかった南城市長のセクハラ疑惑に関する案件ですが、大弦小弦の内容が余りにも香ばしかったので、ついうっかり考察記事を作成しました。読者のみなさん、是非ご参照ください。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その25
□コザ事件のとき コザ事件(一九七〇年一二月二〇日)が発生したときに、私は胡屋十字路の陸橋近くにあったアスターハウス(今のケンタッキーフライドチキン)で明け方までライブをやっていたので、気づかなかったんですよ。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その24
□冗談だけど、いたずらが好き 私は今独身ですけど、いたずらが好きですね。たとえばこういうこともやりました。
「今日バンドの練習がライブハウスであるから」
といったら、「ぜひ練習しているところを見たい」とかいう若い女性四、五人で来るとしますでしょ。これがまた、ただはやらんで何かいたずらを考えるわけです。
標準語の効用
今回は「方言札」に関する史料をチェックする過程で、ついうっかり「標準語の効用」について気が付いた点を簡潔ながら当ブログにて纏めてみました。
その前に「標準語」という用語について言及しますが、外間守善先生によると明治時代に言語教育の場では「普通語」という言葉が用いられ、意外にもこの語句を積極的に使いだしたのは沖縄県が最初であり、そして現代でも使われている「標準語」は昭和12~13年あたりから「普通語」に変わって常用されるようになったとのことです。
実は、大日本帝国の沖縄において、標準語の普及は思わぬ効果をもたらします。それは我がりうきう・おきなわの歴史において史上初の「全県で通用する言語」が教育機関を通じてもたらされた結果、県内に「平等の概念」が浸透するキッカケになったのです。具体的には教育勅語によって臣民(=天皇陛下の前では平等)の観念が、大正10年(1921)の町村制の改正で「法の前の平等」の概念が、そして県民の誰もがコミュニケーションツールとして「標準語」を使いこなすことで、首里や那覇、地方あるいは離島の区別なく「立身出世」する道が拓かれたのです。
大事なことなので繰り返しますが、標準語は歴史上初の全県かつ(出身地や身分などの区別なく)誰もが使用できるコミュニケーションツールです。その意義は強調してもし過ぎることはありません。事実、尚家が支配していたりうきうでは王家や王族が使う言語と、地方で使われる言葉には大きな隔たりがあり、それが「差別」の一因になっていたのです。
それ故に(当ブログでも言及しましたが)標準語教育は首里や那覇よりも地方において熱心に行なわれたのです。
そして昭和20年以降のアメリカ世時代になると、サンフランシスコ講和条約によって日本の潜在主権が認められたのを機に、復帰運動の核として教育現場で標準語励行運動が進められます。つまり、アメリカ支配への抵抗の手段として、琉球住民たちは積極的に “標準語” を使うようになったのです。
大雑把に説明すると、標準語は大日本帝国時代には新時代の言語、とくに地方民にとっては(首里民や那覇民による地方差別からの)解放の言語として、そしてアメリカ世時代は “抵抗の象徴” として用いられてきたのです。現代のおいて、我が沖縄県民は日本人としてごく普通に標準語を利用していますが、時代のよって標準語の意義が変遷していた事実は頭の片隅においていたほうがいいかと思われます。
なお余談ですが、現代では「日本の植民地的支配によってもたらされた言語」との認識で、標準語に対してマイナスイメージを持たれるごく一部の県民が存在するのも事実です。しかも興味深いことに、その手の輩に限って「琉球言語」を持ち上げる傾向があります。ただし、その琉球言語とやらは我が沖縄の身分制度が甚だしかった古代から明治12年(1879)に用いられたものであり、ハッキリ言って社会における身分差別を大前提に利用されていた “いわくつきの言葉” なんです。
つまり標準語に嫌悪感を抱く一部の人達は、平等の観念の理解に乏しいが故に「琉球言語」を持ち上げているのです。しかも、差別の象徴である首里語をベースにした「ぼくのかんがえるさいきょうのうちなーぐち」の普及に取り組むことに何ら疑問を感じていない痛い人士すら存在します。そしてこれこそ現代社会における
ほうげんふらー
の一大特徴であると特筆特大して今回の記事を終えます。