今回は沖縄戦後の新聞をチェックした際に発見した記事について言及します。昭和25年(1950年)10月14日付うるま新報に掲載された「女中殺し」の事件ですが、後に”善良な市民”としてコザ市で名士扱いを受けた人物の名前が記載されています。
*カンパン:沖縄戦後に各地に設置された収容所兼労務宿舎のこと。RTBカンパンは那覇、AJは普天間にあった。
*被害者の名前は黒字で伏せています。
今回は沖縄戦後の新聞をチェックした際に発見した記事について言及します。昭和25年(1950年)10月14日付うるま新報に掲載された「女中殺し」の事件ですが、後に”善良な市民”としてコザ市で名士扱いを受けた人物の名前が記載されています。
*カンパン:沖縄戦後に各地に設置された収容所兼労務宿舎のこと。RTBカンパンは那覇、AJは普天間にあった。
*被害者の名前は黒字で伏せています。
先日ブログ主は戦後の新聞(うるま新報ほか)をチェック中に、気になる社説を見つけました。原文をそのまま書き写しましたので是非ご参照ください。
*社説に「先發の壷屋における殺人事件なども」とありますが、これは昭和26(1951)年1月13日に壷屋で発生した一家惨殺事件のこと(壷屋強盗殺人事件)。
今回は太田朝敷関連の史料として第一回県費留学生として上京した高嶺朝教氏の談話を掲載します(リンク先写真前列右側の人物)。第一回県費留学生の派遣は我が沖縄の歴史にとって重要な意義を持ちます。理由は彼等が琉球・沖縄の歴史上で初めて自発的に断髪したことで”伝統主義の束縛”から自らを解放することに成功したからです。そしてそのことがエリートとしての彼らの人生を決定つけることになります。だがしかし高嶺氏の回想にも明治天皇への拝謁については一言もふれていません。この点はさておき、今回はブログ主にて現代語訳と原文を併せて掲載します。読者のみなさん、是非ご参照ください。
本日『うるま新報』ほか戦時中および戦後の新聞をチェックしている際に、偶然ではありますが興味ある記事を発見しました。本命は「玉城繁政」という人物を調べていたのですが、それとは別に沖縄ヤクザ界における大物と思わしき人物が引き起こした事件についての記述が見つかりました。早速ですが読者のみなさん、是非ご参照ください。
今回はひさびさに”不屈さん”ネタを提供します。昭和38年5月発行の『月間沖縄』の企画で瀬長亀次郎伝が3回にわたって掲載されていますが(現代人物評伝 – 人民党委員長 瀬長亀次郎)、ブログ主はその史料をチェック中に気になる記述を見つけました。ちなみに著者は仲宗根源和氏で戦前から戦後にかけての瀬長氏の経緯を詳しく記述していて、瀬長亀次郎関連の史料のなかでも一級品の内容です。該当部分を抜粋しますので読者のみなさん是非ご参照ください。
今月6日の沖縄タイムスに掲載された〈大弦小弦〉の内容がちょっと香ばしかったので、当ブログにて紹介します。説明不要かと思いますが、10月23日にトルコ政府に保護された安田純平さんに対する(ネット上における)バッシングに対して苦言を呈する内容です。一見もっともなご意見にも思えますが、ブログ主は「何か違うのでは」という違和感を拭い去ることができません。全文を書き写しましたので、読者のみなさん是非ご参照ください。
今回は明治15年(1882年)の第一回県費留学生の気になる点について言及します。『太田朝敷選集〈下巻〉』に年譜が掲載されていますが、その中で同年12月4日、上京した留学生たちが明治天皇に拝謁したとの記載記載がありました。詳細は下図をご参照ください。
*第一回県費留学生:1882年(明治15)年、沖縄から県費で東京へ留学した謝花昇、岸本賀昌、太田朝敷、高嶺朝教、今帰仁朝蕃(中途で帰郷、山口全述に代わる)ら5名のこと。学習院から農科大学や高等師範、慶応大などで学ぶ。
今回はアメリカ世の時代(1945~1972)における事件・事故の記事を2つ紹介します。沖縄タイムス社が編纂した『沖縄年鑑』からの引用ですが、ちょっとツッコミを入れたい気分になった内容です。読者のみなさん是非ご参照ください。
ブログ主はここ数日にわたってこれまで蒐集した史料をチェックしたところ、実に気になる新聞記事を見つけました。昭和49年(1974年)9月23日付の琉球新報において組織暴力団「沖縄連合旭琉会」に関する記事が掲載されていましたが、その中に ”富永清” の名前を見つけました。これはもしかして彼の名が初めて県内2紙に登場した記念すべき記事の可能性があり、今回当ブログにて掲載します。ヤクザネタ好きな読者の皆さん、是非ご参照下さい。
最近ブログ主は10月14日の沖縄タイムスの記事に触発されて、尊敬する太田朝敷先生の史料を複数入手および当ブログにて一部掲載しました。同コラム執筆者の伊佐眞一さんは「それでも彼を語るときに、真っ先に出てくるのは、たぶん「クシャミ発言」でしょうか。クシャミまでヤマトゥンチューの真似をしろ、と高等女学校の開校式典で言ったものですから、のちのちまで多方面に拡がり、戦後の太田さんを一躍悪名高くした言説です(下略)。」と記載しておりますが、たしかに現代の沖縄では太田先生イコール「クシャミ発言」というレッテルが独り歩きしている感があります。
すでに当ブログに取り上げた案件ですが、伊波普猷先生の『古琉球』の論説 – 沖縄人の最大欠点 – についてブログ主が調子に乗って言及します。
ちなみにこの論説が『沖縄新聞』掲載されたのは明治42年(1909)2月21日であることを考慮の上で下記引用をご参照ください。
今回は明治33年7月5日付琉球新報2面に掲載された『女子教育と本県』の後半部を掲載します。太田朝敷先生のイメージを悪くした「クシャミ発言」はこの中に記載されていますが、演説全文を通してみますとそこまで大騒ぎする発言ではありません。「沖縄は差別されている」という観念をいったん頭に中から意識的に取り除いて通読することをお勧めします。後半部も前半と同様に現代文への翻訳と原文を併記しています。
今月20日から25日まで開催された第143回九州地区高等学校野球大会(熊本県)において、我が沖縄代表の沖縄水産高校は1回戦で長崎商業に8-4で、興南高校も準々決勝で優勝した筑陽学園に延長13回(タイブレーク)1-0で惜しくも負けてしまいました。沖縄水産に関してはセンバツ出場が絶望的ですが、興南に関しては筑陽学園が優勝したことで少しではありますがセンバツ出場の可能性が出てきました。今回はその可能性について言及しますので、野球好きの読者の皆さん是非ご参照ください。
今回はちょっと真面目に我が沖縄県の学力低下の原因を歴史的に考察します。正直なところ現在のブログ主のレベルでは手にあまるテーマではありますが、歴史的にさかのぼって考察すると面白い仮説ができあがりましたので、この場を借りて紹介します。拙文ではありますが読者の皆さん是非ご参照ください。
その前に琉球藩時代の士族における学問の目的について言及します。明治8年(1875年)に来琉した河原田盛美(かわらだ・もりはる)氏の『琉球紀行』より、那覇士族の実態について言及している箇所を抜粋します。
今回は明治33(1900)年7月1日、沖縄高等女学校開校式における太田朝敷先生の演説『女子教育と本県』の全文を掲載します。正確には同年7月3日の琉球新報に掲載された前半部と、7月5日に掲載された後半部に分けています。琉球新報の原文は旧漢字かつ句読点がついていないため、試みにブログ主にて訂正した部分と、原文書き写しをアップしました。太田先生を語るうえで必ずと言っていいほど出てくる「クシャミ発言」は後半部にあります。まずは前半部をご参照ください。