(つづき)今回は復帰後の旭琉会組員たちの清清しいまでのクズっぷりを紹介します。昭和45(1970)年12月8日、山原派と那覇派を中心に沖縄連合旭琉会が発足しますが、その実態は大小グループの寄せ集めであって、現代のような統制が取れた組織ではありませんでした。
満韓旅行雑感(上)/ 中学生生徒 又吉康和
同じ水も牛が飲めば乳となり蛇が飲めば毒となる。旅行もまたその場所により人に依りて益ともなり害ともなるあらん。あヽ余は今度の旅行ほど利益ありし旅行は過去を尋ねても、はたまた将来に於てもそを求むるに難きことヽ思ふ。
害虫の異常発生
今回は昭和51(1976)年12月に山口組が沖縄に進出した際の反応について言及します。当時の新聞記事によると、同年12月6日に那覇市曙に上原組が山口組系大平組の直系(三次団体)として事務所開きした旨記述がありました。
組織暴力団 – 火を吹く抗争 ⑩ 強化する警備体制
3月4日未明、琉真会アジトに銃弾が撃ち込まれて以降、連続発生した短銃発砲事件。さる18日には、ついに暴力団1人が射殺され、1人が重傷を負う事件が発生、住民の不安はつのるばかりだ。
くにがほろぶとき
今回はちょっと真面目なコラムを掲載します。慶長の役(1609)から明治12(1879)年の廃藩置県までの琉球国をふりかえると、実は何度か王家存続の危機があり、その点について言及します。
台湾弁当ですから
最近、ブログ主はフレッシュプラザユニオン(以下ユニオン)で台湾弁当を販売していることを知り、さっそく古島の店舗を訪れてみました。ユニオンは惣菜コーナーが非常に人気ですが、その一角でたしかに臺瓏(タイロン)とコラボで3種の台湾弁当を販売してました。
余談ですがブログ主は臺瓏(タイロン)那覇松尾国際通り店でワンプレートランチを食べたことがあり、その経験から “これは絶対に外れはない” と確信して弁当3種を速攻でゲットしました。弁当ネタ好きの読者の皆さん是非ご参照ください。
組織暴力団 – 火を吹く抗争 ⑨ 住民運動
去る23日午前10時、那覇地裁民事第三部(浜川玄吉裁判官)で、琉真会アジト明け渡し訴訟の第一回口頭弁論が開かれた。被告の琉真会会長・仲本政弘は出廷せず、法廷に姿を見せたのは原告代理人ただ1人。原告の上原能吉さんは出張中ということだったが、傍聴席もアジト近くに住む住民1人が来ただけで、暴力追放への住民の関心は薄かった。各地で上がった暴力追放の火の手は、このまま消えてしまうのだろうか…。
組織暴力団 – 火を吹く抗争 ⑧ 勢力と構成
暴力団の犯罪は組織をバックにして行われる。ユスリ、タカリのたぐいから企業の乗っ取りまで組織的に悪事を重ねる。
「個人個人だったら取り締まりも問題はない。暴力団は組織として悪いことをするから始末が悪い」と警察は暴力団取り締まりに手を焼く。
しに有名な日本そば屋さんが営業再開したので早速訪れてみた件
今月16日に那覇市久茂地にあった日本そば店「美濃作」が辻のステーキハウス88の2階で営業再開するとのニュースが琉球新報 Web News 上で配信されていました。
ブログ主は以前の久茂地の店舗はよく訪れていましたので、懐かしさのあまりつい新店舗を訪れてみました。新型コロナウィルスの第2波騒動でしばらくグルメレポートは自主規制していましたが、今回は再解禁第一弾の記事配信となります。読者のみなさん、是非ご参照ください。
組織暴力団 – 火を吹く抗争 ⑦ 資金源〈下〉
ゆすり、たかり、ヒモ、バクチなどのほか資金源として有名なのがナワ張り料。しかし、ナワ張り料についても警察は、その実態をよくつかんでいない。警察のある幹部は「確かにナワ張り料を徴収していると思う。しかし、被害者からの訴えは全くない」と言う。
組織暴力団 – 火を吹く抗争 ⑥ 資金源〈上〉
甘い砂糖にアリがむらがるように暴力団も金と言う甘い汁にむらがっている。そのためには暴力に訴えることなど朝飯前。ヒモとなって女性のかせぎを吸い、果ては人殺しさえも平気だ。「社会のダニ」「アシバー」(遊び人)と世間からさげすまれても “甘い汁” がある限り、彼らは暴力団をやめない。いま、社会不安をつのらせている一連の暴力団抗争事件も、つまるところ、資金源の奪い合いが引き金となっている。
明治29年のクラスター騒動
今回は明治29(1896)年に首里区(現在の那覇市首里)で発生した天然痘のクラスター騒動について言及します。『琉球敎育巻2』の明治29年11月号に、首里区内の天然痘流行に伴い “女子講習科” および “首里高等小学校” などの敎育機関が一時休校になった旨の記事が掲載されていました。
組織暴力団 – 火を吹く抗争 ⑤ 組織と武器
抗争が激化するにつれて、暴力団は銃器の確保に躍起となり、暴力団の “武装化” はますます強化されていく。短銃をしのばせ、連日連夜、車に分乗して走り回る旭琉会行動隊員。上原組、琉真組が相次いで本土広域暴力団・山口組系大平組と杯を交わし、アジトを構えたことから、抗争はエスカレートした。
組織暴力団 – 火を吹く抗争 ④ 山口組進出のねらい
山口組の沖縄進出のネライは何だろうか。短銃などの武器貯蔵庫とか、覚せい剤や麻薬の密売や密輸ルートとしてなど、いろいろ取りざたされている。だが、本当のところは県警も、山口組を迎え撃つ旭琉会さえもつかんでいないようだ。
組織暴力団 – 火を吹く抗争 まとめページ
昭和52(1977)年5月20日付琉球新報11面から10回に渡って連載された特集記事 “組織暴力団 – 火を吹く抗争” のまとめページを作成しました。
ちなみにこの特集記事が掲載されたきっかけは、同年5月18日に那覇市牧志の十貫瀬で発生した旭琉会組員による射殺事件です。同年3月から旭琉会による上原組・琉真組に対する襲撃事件が頻発するようになり、その流れで射殺事件が起こったわけですが、さすがにこの事件は沖縄県警および世論の怒りを買います。