今回から「おもろさうし」から首里と勝連の関係について言及しますが、実は勝連のオモロにはおぎやかもい(尚真王)を讃える内容の唄があります。それ故におもろさうし編纂時に、王家に都合の悪いオモロはカットされたのではとも考えられます。
暴力の本質
今月22日、沖縄市民会館で開催された県民大会に絡んで、翌23日の沖縄タイムス20面特集号に「奪われ続ける尊厳と命」と題し、米軍に起因する性暴力の一覧が掲載されていました。
俺が調子に乗ってライトなシージャネタを紹介する記事
本日はクリスマスということで、今年も恒例の風俗記事をアップといきたいところですが、今月22日の名護市議のやらかしがあまりにも強烈すぎたので、とりあえず復帰前後のシージャネタでお茶を濁します(理由:勝てる気がしないから)。
そのシージャネタも去年紹介した “中絶模合” に勝るレベルはなかなかありませんので、取り急ぎ軽めのネタでまとめてみました。読者のみなさん、是非お愉しみください。
心底気持ち悪い
今年の8月からブログ主は定期的に阿麻和利に関する記事を配信しています。その際に「おもろさうし」だけでなく、必要に応じて古典史料もチェックしていますが、ふとしたきっかけで『論語』の中に「子夏曰小人之過也必文(子夏曰く、小人の過つや、必ず文る)」の一節があったのを思いだしました。
参考までにGoogle AIによる検索結果によると、
阿麻和利の乱(二)
前回の記事において阿麻和利の乱を「史実認定」すると、どうしても不都合が生じてしまうこと、そして当ブログでは18世紀以前の史料、具体的には「おもろさうし」から首里と勝連の関係について推測する旨言及しました。100年以上前に偉大なる伊波普猷先生が試みた手法を採用するわけですが、伊波先生とブログ主では少し立場が違います。今回はこの点について説明します。
カウントダウンにはいった丸長食堂
昨日(18日)、沖縄市美里で絶賛営業中の「丸長食堂」が今月末で閉店との情報を入手したブログ主は、きのう時点でネット上でも話題になっていなかったのをチェックしつつ、同日18時ごろに真相を確かめるべく、同食堂を訪れました。
キングス商店街の魅力
昨日(16日)、たまたま沖縄市某所でTVを見ていたところ、「キングス商店街の魅力」と題したニュースを報じていました。前から沖縄市中央の「一番街」が「キングス商店街」と名乗っていることは知ってましたし、もちろん琉球ゴールデンキングス側も便乗はウェルカム(大歓迎)なんですが、さすがに「どこに魅力があるのだろう」ともやっとした気分になったブログ主は、早速ですがキングス商店街の現状を撮影してきました。
阿麻和利の乱(一)
今年の8月から当運営ブログにて定期連載してきた “阿麻和利” について、今回から彼が起こしたとされる反乱について考察します。
現在の我が沖縄において、護佐丸・阿麻和利の乱は15世紀の半ばの史実として認識されていますが、その傍証としてGrok(XのAI生成ツール)に「阿麻和利の乱について教えて」と尋ねた際の回答がなかなかの出来栄えだったので全文を紹介します。
阿麻和利考(七)
△護佐丸はこの天嶮に據り、士馬を訓練し緩急に備へてゐた。彼は阿摩和利に取つては眼の上瘤であつたらう。しかし阿麻和利は之を除く可き機會を見出した。或日彼は魚舟に乘つて與那原の濱に上陸し、直ちに首里城へ參内して、護佐丸が謀叛の企をなす由を讒言し、王命を奉じて護佐丸を討つた。護佐丸は冤を訴へようとしたが達するに由なく、君命を重んじて敢て一矢を放たず、妻子を殺して自殺してしまつた。さて護佐丸が儒教的訓戒を守つて快く死んだ所は、やがて倫理的價値の存ずる所であらう。
阿麻和利考(六)
△屋良村の百姓の子は遂に王の妹を妻にすることが出來た。例の由來傳は記して曰く
阿麻和利考(五)
△阿摩和利が勝連の按司となつてより政蹟大にあがり、半島の民擧つてキモタカの阿摩和利を謳歌し、遠近の人々皆その風を慕ふたのである。今日でこそ勝連半島は寂しい村落になつてゐるものゝの、その昔は隨分繁昌した所である。當時の民謳つていはく
俺が調子に乗ってセンバツ出場予定校(九州地区)について語ってみた件
今月6日、ブログ主がチャンネル登録(YouTube)している「野球探偵(やきゅたん)」に「 【高校野球】2025年 選抜甲子園 出場校予想!」と題した動画が配信されていました。そのなかで九州&沖縄地区の出場予想校として、沖縄尚学(沖縄1位・優勝)、エナジック(沖縄2位・準優勝)、柳ヶ浦(大分2位・ベスト4)、西日本短大付属(福岡1位・ベスト4)の4校を挙げていました。
阿麻和利考(四)
△阿摩和利はとにかく勝連の人民の意志によつて半島の主人になつたのである。然るに夏氏由來傳に
阿麻和利考(三)
△阿摩和利は實にかういふ時勢に出たのである。そも〱彼は如何なる家に生れて如何にして育つた者であるか、彼れの父母兄弟に就いては記綠も口碑も之を語つてゐない。只だ彼れの靑年時代に就いて其敵者たる夏氏の由來傳が
阿麻和利考(二)
△阿摩和利が琉球史上如何なる地位を占むるかを知らうとするには、三山時代前後の社會状態を一瞥する必要がある。さてこれまで琉球史を書いた人は、皆玉城王の晩年(十四世紀の初)に國が分れて、中山、南山、北山の三王國となつたと言ふて、さながら一の王國が分裂したやうに思つてゐるが、余はこの分れると言ふことに就いて多少疑を抱いてゐる。