◎…夜のとばりが下りはじめ、街にネオンが灯るころ真赤な唇と白い顔の妖女たちがどこからともなく現れる。そこはコザの特殊地帯A通り。B子はこの通りの奥に住んでいる。女教員風な感じのするズングリした女である。彼女(仮にB子としておこう)は他の女に比べて決して悪どい客引きをする女ではない。ただ男の近づくのを待っている。他の女からは離れて壁にヤモリのようにくっついて…。取締りの警官をケイカイしているのだろう。この商売も楽ではなさそうだ。
基地の街エレジー まとめページ
昭和32年(1957年)9月13日から全20回にわたって琉球新報で掲載された “基地の街エレジー” のまとめ・解説ページを作成しました。理由は、当時の時代背景をある程度説明しておかないと、記事内容を理解できないのではと考えたからです。
基地の街エレジー(2) ガム賣り
基地も街だからって米人相手のバァーやキャバレーばかりがあるわけではない。コザ十字路の北方に吉原という一画がある(正確にいうと美里村吉原区)。センターや、八重島、島袋、諸見などが11時で1日の仕事に終りをつげ、大戸を下すころ、こゝ吉原の街はようやく目をさます。中部の客だけでなく、遠く那覇から宴会帰りの客が押しかけ中々の繁昌ぶり。酔客が千鳥足で窓々の娘達を冷かす中、夜は更けてくる。
【令和版】ミラクルシティーコザ……
今年の1月21日から県内の各地映画館で “ミラクルシティコザ” が絶賛上映中です。昭和45年(1970)前後のコザを舞台にした映画ですが、実は50年後の今日でもコザでは “ミラクル” が起きることを痛感した出来事があります。
基地の街エレジー(1) 街角の女
夜更けの街角、詩になるようなこの言葉も中部の街で拾うと、面白い、おかしい悲しいエピソードの数々となってくりひろげられる。一言に基地の街とはいっても、そこに住んでいるのはやっぱり私たちの仲間だ。昼働く仲間、夜働く仲間、あすのために働く仲間の奏でる「基地の街・エレジー」にしばし耳をかたむけてみよう。
裏通りのオデン屋……その名はゆき子(26)。コクハイのグラスを右手にドロンとした赤い眼を向け、しんみりとした口調で訴えるように、あざけるように長々と語る。
私にだって青春が……短い青春だったが……あったんだ。中学を卒えた年、すぐ軍の洗濯女になり、小さい体で一生懸命働いたよ。
続・ウクライナ問題の教訓
前回 “ウクライナ問題の教訓” と題した記事を配信しましたが、現在進行中のロシアとウクライナの係争はクリミア半島と黒海艦隊の帰属問題とは切り離せない部分がありますので、追記という形で記事をまとめてみました。
【旭琉會】永山暫定代表の就任について
今月13日の琉球新報DIGITAL版に唐突な感じを受けましたが、”沖縄の指定暴力団「旭琉会」の暫定代表、永山幹事長が就任 世代交代への足固めか” と題した記事が配信されていました。
配信当時はあまり興味を持たなかったのですが、ヤクザ関連の史料整理中に、今回の人事の重大性に気が付きましたのでブログ主なりに解説します。
ウクライナ問題の教訓
今月24日、8年にわたる内戦状態にケリをつけるべく、ロシアのプーチン大統領がウクライナへの軍事行動に踏み切りました。
ブログ主はもちろん国際政治の専門外であることは承知の上で、今回のウクライナ危機から “教訓” を見出しましたので、当ブログにまとめてみました。ぜひご参照ください。
祖国復帰運動の矛盾 – われら日本国民(強制したとは言ってない)〈その1〉
(続き)以前、当ブログで掲載した記事、 “復帰協が残した教訓 – その2 経歴” の中で、復帰運動を主導する民間団体の結成が当初はうまくいかなかった件について言及しました。
祖国復帰運動の矛盾 – プロローグ
今年は我が沖縄が本土に復帰して50年の節目の年にあたります。ちなみに恒例の “復帰についてのアンケート” では、毎回 “復帰してよかった” の回答が8割前後を占めることはよく知られています。
沖縄タイムスの本質
前日(15日)にツイッター上で(偶然にも)石井孝明さんと沖縄2紙について少しだけやりとりをしましたが、それにヒントを得て、今回はブログ主なりに沖縄タイムスの “本質” について言及します。
日常生活には役に立たない沖縄ヤクザ・トリビア
今年は我が沖縄が本土に復帰して50周年の節目にあたります。それに関連して本土の組織暴力団(山口組)の沖縄進出について調べつつ、これまで蒐集したヤクザ関連の史料を整理したところ、興味深い事実を再発見することができました。
うちなーの正覚者
当ブログにおいて、前回 “うちなーの奥義” と題した記事が意外な反響を呼びましたので、今回はそれに関連して “うちなーの正覚者” について言及します。
国琉会について
前回の記事で復帰前後の山口組の沖縄進出について説明しましたが、今回は昭和45年(1970)4月に沖縄に進出した “国琉会” について言及します。
山口組の失敗
(続き)前回の記事で、アメリカ世から復帰後にかけて山口組の沖縄進出が失敗した理由はただ一つ “人材選びを誤った” と言及しました。今回はブログ主の手持ちの史料を利用して、この点について言及します。