今月4日のQAB琉球朝日放送のネットニュース “「しまくとぅば普及推進室」沖縄県庁に新設で看板設置「聞く・話す機会を創出しよう」” によると、沖縄県庁内に「しまくとぅば」の保存・普及に向けて県庁内に専任の部署が新設されました。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その6
□夏休みのバンド活動 PTAと先生方と生徒が一緒になってのものでしたが、コザ小学校で謝恩会というのがあって、そのとき私たち、そこで演奏をやってしまったわけです。
すると、みんな口を開けて見ていて、もう先生方も生徒もヌーガ・キーガ・ワカラン(何が何やらわからない)という感じでしたが、そのときの反応はというと、音はエレキギターですから、ベース、ドラム、ギターでうるさいんだけど、私たちは清潔にはしていたんで、面白くもないし、そうかといって無視はできないしという感じでした。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その5
□勉とのつき合い (外間)勉とは家が近いので「こういう音楽もあるよ」と、レコードのやりとりをする仲でした。
私たちの高校時代に、瑞慶覧基地(北中城村)や嘉手納基地とかでゴーゴーダンスコンテストがありました。今でいえばパレットくもじ(デパート)なんかで高校生が踊ったり、ディスコでひっくり返ったりして踊っているものと同じです。これを高校三年のときに、私と外間勉の二人でずっとあちこち荒らしまわっていたんです。勉はおしゃれな踊りが上手かったけれど、私の場合はどちらかというとクセのある踊り方でした。
馬汁は美味いというお話
本日(3日)、ブログ主は朝早くから沖縄県立図書館に出向いて、カッちゃんこと故川満勝弘さんに関わる新聞史料をチェックしてきました。その際に、ついうっかり沖縄ヤクザ関連の新ネタも見つけてしまったわけですが、それらの史料は One Note に写本&チェックしたのち当ブログにて公開予定です。
それは置いといて、今回は図書館帰りに那覇市辻で「馬汁」を完食したお話を紹介しますので、B級グルメ好きな読者のみなさん、是非ご参照ください。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その4
□高校三年で社交ダンスを教える ようするに学校の伝統というか、後輩は先輩に対してあいさつするとか、上級生になるまでは生意気なことをしたらだめだとかいうのがあるんですけど、私は先輩も後輩も平等、男性も女性もみんな平等と思っていますし、一年のときからこうだから目に入りますので「なんだこいつは新入生のくせに」ということで呼ばれて、それで四人ぐらいに三度、制裁を加えられたんです。
ロックとコザと “納税”
先月21日から「ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編」と題して、故川満勝弘さんの証言を写本し、当ブログにて公開していますが、その過程でいろいろな “気づき” があったので、試しに記事としてまとめてみました。
廃藩置県と琉球処分の考察 – その3
(続く)前回の記事において “72返還の怨念” が明治12(1879)年の廃藩置県の歴史認識に大きな影響を及ぼしている件についてブログ主なりに説明しました。
ちなみに廃藩置県という歴史的事件を否定的に捉えているのは、復帰前後から現代までのわずか50年程度であり、それまでは大雑把にいって世間では肯定的に認識されています。それはつまり、伊波普猷先生の廃藩置県に対する解釈が絶対的な影響を及ぼしていたわけであり、今回はこの点について言及します。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その3
□高校生時代 私は、高校はコザ高校です。
高校では、「体操部に来い」とか「卓球部に来い」とか、また、中学の三年のときに校内マラソンで一番になってしまったから「トォー・アン・シェー(よしそれなら)陸上部に来い」とか、そういったヌー・ヤン・キー・ヤン(なんだかんだ)といって誘われましたが、体操部と陸上部にはあまり女性がいなかったので、それで、そのときかわいい子がいた卓球部に入ったんです。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その2
□中学校時代 私は、中学はコザ中学校です。
当時は、ゴヤ商店街(今の一番街)がありますよね、そこのおやじはほとんどみんな知っていますから、洋服とかシャツとかの品物を置いてある台が店の前にあって、そこでおじいちゃんなんかが囲碁とか将棋をやっているんですよ。
それで、中学校の帰りに「何やってるのかな」とのぞくと囲碁は白と黒がこうなって、将棋もこれがこうなって、ああこうなってこうなってと、ずっと二時間ぐらい見てて、それでだいたいわかってきて「アハァ、ウレェ、ウング・トゥー・シルス・サヤー(これはこうやってするんだな)」と覚えたわけです。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その1
□生い立ち 私は、生まれたところがわからないんですよ。一九四四(昭和十九)年八月十八日生まれで、宮古のどこか、誰も教えてくれないんです。それと、私は一人っ子ですが、遠い親戚が息をひきとる前に、双子の兄弟がいるといっていたんですが、ああいうときに嘘はいいませんよね。だから、私と似ているのがどこかにいるんじゃないですかね。
廃藩置県と琉球処分の考察 – その2
(続き)前回の記事にて、沖縄の復帰運動における、一部沖縄県民のやり場のない怒りが、明治12(1879)年の廃藩置県に対する歴史認識に大きな影響を及ぼしている件についてブログ主なりに言及しました。今回は、この点についての補足説明を加えながら、「琉球処分」という用語がいかにマイナスイメージに染まっていったかを説明します。
廃藩置県と琉球処分の考察 – その1
今回は、前々回に公開した「県政百年の知事メッセージ(昭和54年)」に関連して、同時期の沖縄タイムスの記事と比較したところ、「県政百年」に関する認識の違いにじわじわきたので、試しに記事にまとめてみました。
俺がついうっかり歴史的でない建造物に入室した結果……
今回は、プライベートな “とある疑問” を解決すべく、ブログ主が那覇市若狭の「Hotel Blue moon ~ ホテル・ブルームーン ~」についうっかり入室したレポートをアップします。これまでブログ主が投稿した記事を再チェックすると、去年の5月あたりから “歴史的建造物” の記事(殿堂入り)が散見されるようになりましたが、意外にも女性需要が多かったので、不定期ではありますが今後もアップし続ける予定です。
県政百年の知事メッセージ(昭和54年)
本日は、(ブログ主的に)野球シーズンがひと段落したので、ブログネタになりそうな史料を探しに、ひさびさに沖縄県立図書館を訪れました。そういえば4月4日は、明治12(1879)年に廃藩置県が施行されて140年以上経っているなと思いつつ、試しに復帰後の関連記事をチェックしたところ、興味深い史料を発見しました。
『県差別のない社会づくり条例』と自衛隊の人権
今月1日の琉球新報DIGITAL版によると、石垣市議会(我喜屋隆次議長)は3月定例会最終本会議において、「陸上自衛隊石垣駐屯地開設に伴い自衛官やその家族および駐屯地関係者の人権を尊重する決議」を全会一致で可決し、野党の7人は退席したと報じられていました。