琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 男色の慣習がなかったこと その2

琉球と薩摩とは1609年以前にも付き合いがあります。数百年来の長い交流があるのですが、それにしては薩摩から持ち込まれた文化がほとんど見当たらない*のです。薩摩を経由して日本の文化が持ち込まれますが、沖縄を実質的に支配してきた国の慣習が持ち込まれないことはよく考えると異様です。

*琉球侵攻における戦争目的は明国との貿易利権の確保です。琉球人が薩摩化するとどうしても不都合が生じてしまうため、薩摩藩は琉球人と薩摩人との区別を強調する政策を取ります。おかげで薩摩と琉球王府の関係は良好で、270年にわたる平和と安定の時代が訪れます。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 男色の慣習がなかったこと その1

日本の歴史に於いて最も人気が高い時代は織田信長などの戦国武将が大活躍した戦国時代か、あるいは新撰組の物語が有名な幕末でしょうか。戦国時代(1467~1590)は京都の足利家の凋落から豊臣秀吉による天下統一までのストーリーに興味を引かれる読者も多いでしょう。登場人物の魅力にも大いに惹かれます。

そんな戦国時代ですが歴史教科書には決して載せない事項があります。タブー扱いになっていますが、それは人身売買戦国武将たちの男色の慣習です。例えば織田信長*は女性よりも男性との性的交渉が多かったなどと教科書に記載することはできないでしょう。歴史教育ではタブー扱いでも問題ありません。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 イスラム教が普及しなかったこと その7

琉球国にイスラム教が普及する可能性は1511年(永正8)にポルトガルがマラッカを占領し事実上南方との交流が制限されたことで限りなくゼロに近づきます。1609年(慶長14)には島津氏による琉球侵攻及び江戸幕府による海禁政策によってイスラム教はおろか新しい宗教が普及する可能性もゼロになります。

明治の世になってようやく信仰の自由が保障され、その結果禁教扱いだった浄土真宗やキリスト教が普及しますがこの期に及んでもイスラム教は蚊帳の外です。大正→昭和→平成の世を経ても普及する様子はありません。

イスラム教圏ですらアメリカナイズされつつある今日、沖縄に於いてイスラム教が普及する可能性はゼロと言わざるを得ません。1372年から1511年の交易時代に布教のタイミングを逃したことがすべてです。趣味や学問として研究することはあってもイスラムの教えに帰依する沖縄県民は今後出現しないと断言せざるを得ません(終わり)。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 イスラム教が普及しなかったこと その6

では当時の琉球国においてイスラム教の普及の可能性はゼロだったのか?というとそんなことはありません。実は画期的な方法があったのです。イスラム教は女性にも門戸を開いている宗教です。この点は誤解されている読者も多いでしょう。男女の区別は明確ですがイスラムの教えに帰依することに対しては性別の差別はないのです。

事実イスラムの歴史には女性の法学者や伝承学者が多数存在します。廃藩置県まで女性を学問から排除した琉球の社会構造に比べるとイスラム教のほうが遥かに女性尊重の姿勢です。そこで当事の琉球社会に於ける最高の権威である聞得大君をはじめ神女が全員イスラムの教えに帰依すればあっという間にイスラム教は広まったこと間違いありません問題はこのアイデアに誰も気が付かなかったことです。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 イスラム教が普及しなかったこと その4

 では当事の琉球人の知的レベルに問題がないとすれば別の要因でイスラム教が伝播しなかったと考えざるを得ません。イスラムの教えが琉球に到達しなかったのはなぜか、ブログ主が思うには以下の2点です。

1.イスラム教の戒律の厳しさ。

2.当事の琉球国における神女の存在。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 イスラム教が普及しなかったこと その2

イスラム教とは何ぞや?と問われると「預言者ムハンマドによって爆発的に布教したの教え」と回答して間違いないでしょう。神の教えはムハンマドの死後聖典として編纂され、アラビアのみならず西はアンダルス(スペイン)やアフリカ大陸、東はインドを経て東南アジアや中国大陸、フィリピンのミンダナオにまで広まります。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 プロローグ

ここまで調子に乗って琉球王国末期までの歴史の概要を記事にしました。近現代史は後日記載することにして、しばらく個人的に思う琉球・沖縄の歴史の謎について記載します。それは以下の通りです。

1.イスラム教がまったく普及しなかったこと。

2.男色の慣習がなかったこと。

3.近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと。

日本史や世界史を俯瞰して、個人的に気になる点を記事にしました。現時点で勉強不足の点は否めませんが琉球・沖縄の歴史を学ぶ上での参考にしていただくと大変ありがたいです。

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琉球・沖縄の歴史の概要その11

ここまでは調子に乗って1260年(正元2)から1872年(明治4)までの歴史を記載しました。1872年(明治5)以降の通史は後日記載するとして、ざっと目を通したところ過去の成功体験が結果として琉球の社会全体を疲弊の極に追いこんでしまった印象があります。

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琉球・沖縄の歴史の概要その10

斉彬くんの死後は島津家では久光くん*が実権を握ります。久光くんは斉彬くんの時代と違って諸外国のネットワークにはあまり関心を示しません。ただし薩摩藩内で銅の価格が高騰したことによる対策として尚泰くんに無慈悲な指令*を下してPCを破壊一歩手前までに追い込みます。

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俺が調子に乗って沖縄の高校野球の歴史を語るシリーズ 伊志嶺吉盛監督の勇退について思うこと その2

2006年の八重山商工は複数の投手(大嶺裕太、金城長靖)と強力打線を擁して、春のセンバツで1勝します。優勝した横浜高校に7-6で惜敗しますが、その後の春の九州大会で優勝すると夏の沖縄県予選では苦手にしていた中部商業を決勝で7-3で破り夏の甲子園出場を決めます。

甲子園では大嶺投手が不調でしたが、自慢の強力打線が好調で2勝を挙げます。南の島からとんでもないチームが出現したことで大きな話題となり、その活躍はテレビドラマにもなりました。ただしこの時の成功体験が後のチームつくりに大きな障害となったのです。

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俺が調子に乗って沖縄の高校野球の歴史を語るシリーズ 伊志嶺吉盛監督の勇退について思うこと その1

今年の夏の選手権で八重山商工の伊志嶺吉盛監督が勇退することがマスコミに大々的に報道されました。2003年春から13年の間八重山の高校野球を牽引した名物監督の引退は、沖縄の高校野球の一つの時代が終わったことを実感します。

ブログ主から見た伊志嶺監督は間違いなくエリートです。ここでのエリートとは学歴エリートやスポーツエリートの意味ではなく「己の使命に殉ずる人」のことです。八重山地区の野球のレベルアップのために己のすべてを捧げたことに対して素直に敬服するしかありません

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