今月24日付沖縄タイムス1面によると、「台湾有事」を念頭にした軍備増強に反対する初めての大規模集会「全国連帯!沖縄から発信しよう!11.23県民平和大集会」(主催・沖縄を再び戦場にさせない県民の会)が(同月)23日、那覇市の奥武山公園陸上競技場で開かれ、約1万人(主催者発表)が参加したとのことです。
勤労感謝イブの日にサンタさんがやってきた話
本日は勤労感謝の日なので、本来ならゆっくり過ごしたいところですが、残念ながらブログ主は忙しい一日となりました。その代わりと言ってはなんですが、前日に歴史的建造物への “潜入” を兼ねつつ、リフレッシュタイムを満喫してきました。
(続)あいろむノート
本日付(11月21日)沖縄タイムス5面オピニオン(以下読者投稿欄)をチェックした際、すごく気になる投稿を目にしました。それは、「国の冷酷さ 軽便鉄道で知る」と題した那覇市在住の購読者からの投稿で、内容は同月6日付沖縄タイムス1面「大弦小弦」に対する反響投稿です。
平和教育の “原点”
3年前の令和02年(2020)、「平和教育の致命的な欠点」と題した記事を掲載したところ、予想の斜め上を行く反応がありました。3年後の今日に改めて該当記事を読み直しつつ、今回は別の視点から沖縄の平和教育の “原点” について考察します。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その22
□エスカレートするステージ 私たちが客席にこの🐔を投げつけたりすることは、まだ簡単なことです。私たちは、ステージの上でセックスするんですよ。考えられませんよ、本当に。これは一度だけ、最初で最後ですけど、セックスというよりなんというか、アメリカ人の女性とすっぽんぽんになってステージの上で抱き合って、セックスまではしなくて、愛の戯れをやったことはあるわけです。その間演奏は泊めないで、ずっとそれにマッチしたアメリカの音楽をやるんです。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その21
(続き)そのころ、私たちは音楽ではもう勝っているので、これだけ米兵がいっぱい集まってきてもあんまり私たちに物を投げなくなっていましたが、そのだめ押しをしようというわけです。
でも、そのかわり自分たち同士ではテーブルをひっくり返したりして騒ぐので、そこで経営者は「静まれ」といってカウンターの後ろに置いてある空気銃を「バーン」と撃ったりするような、それぐらいの店でしたよ。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その20
□チビの加入と脱退 また(アメリカでレコーディングするとき)、紫のチビ(宮永英一さんのこと)が「カッちゃんアメリカ行くんだってな、僕も入れてくれ」といって来たんです。「アメリカに行って試してみたいよ。紫でも行けなかったしさ、紫解散してしまうし、コンディション二回目だろ、お願いカッちゃん、俺何でもやるから連れてってくれ」とチビがいうので、「おまえ本当にじゃエツーと仲良くしろよ」といったのに、
魂の叫びだけが愛と平和を勝ち取る(笑)
10月末から11月に入って、ブログ主はこれまで蒐集した “積み史料” の整理に追われています。そのためブログ更新も若干遅れ気味になってしまいましたが、たまった史料をチェックしている最中に「ピースフルラブ・ロックフェスティバル」について気が付かされた件があり、試しに記事を作成しました。
あいろむノート
本日(11月6日)付沖縄タイムス1面の名物コラム〈大弦小弦〉をチェックした際、「渋滞は紛れもなく基地被害の一つ」との気になるフレーズを目にしました。実際ににそう感じている購読者も多いと思われますので、試しにブログ主がファクトチェックを試みてみました。
参考までに、沖縄の渋滞のピークは復帰後の昭和52年(1977)ごろで、特にひどかったのが国際通りを通過するバス運行であり、渋滞のあまりの惨状に当時の新聞記事をずいぶんとにぎわしていましたが、それはさておき大弦小弦の一部を書き写しましたので、読者のみなさん、是非ご参照ください。
歴史を美化したがる面々
今月3日から首里城公園を中心に「第58回琉球王朝祭り首里」が3日間の日程で開催される旨の記事が、地元新聞1面に掲載されていました。6年ぶりの通常開催の模様ですが、この手のイベント告知をチェックしてつくづく思うのは、「ついうっかり歴史を美化してしまう」人間心理の根強さです。
あの頃を語る 安村つる子女史の思出話 その2(原文)
學科は今と大した差はないが敎授方法や形式が今とは異つてゐまして餘程滑稽なのもありました。圖畫の時間などは今ぢや鉛筆クレオン水彩畫などもやつておりますが私の時代は專ら日本畫でして墨繪でした。疊の上に紙を敷きましてそれへ筆を運んでゐたものですよ。墨繪だと言ひますと今は日本全國どんな學校を搜しても年が年中筆で繪を畫かせてゐる學校はまあ無いのでせうね。音樂の時間もですね、今ぢや樂譜の符號でやつてゐますが私たちは123でしたが今でもこの123式はやつてゐますけどドレミでなくわたしたちはヒフミと發音してゐました。習つた唱歌も國歌とか「金剛石を磨かずば」等でした。
あの頃を語る 安村つる子女史の思出話 その1(原文)
安村つる子女史は今は亡き夫良公氏との間に四女を擧げ目下首里市金城町に居住され子妹の敎育に專念されつゝある首里第一小學校に奉職中なりしも今學期を機會に敎育界を勇退されることなつた。本縣最初の女敎員で女子敎育界の元老である。今仝女史を訪ふて當時の敎育狀况の輪廓や挿話を描いてみる。
身分制度と和装
ここ数日、ブログ主はこれまで蒐集した史料をチェックしたところ、ふとしたことから琉球女性が和装した “本当の理由” について気が付きましたので、当ブログにて纏めてみました。
当ブログの読者であればご存じかもしれませんが、我が沖縄の歴史のおいて初めて和装した人物は “偉大なる” 安村つる子女史(1881~1943)です。外間米子監修『時代を彩った女たち』によると、彼女が明治32年(1899)に和装した理由を「当時「源平時代の古代服」といわれた琉装を、日琉同祖論の立場から和装に改めるべく(下略)」と記述してますが、実はこの説明は正確さを欠いているのです。
うちな~んちゅと他責の精神
先月26日に開会された沖縄県議会の9月定例会は、初日から最終本会議の23日まで歴史に残る荒れ模様の展開になってしまいました。結果的にかつてないレベルで玉城県政の “無能ぶり” が日本中に知れ渡ったわけですが、個別事案はさておき、今回は(県政のやらかしに対する)知事を支える支持者たちの反応が極めて興味深かったので、ついうっかり調子に乗って考察してしまいました。
令和のうちなー弁当事情 – 辻スーパー編
先日、沖縄食堂の閉店ラッシュについて興味深いブログを見つけました。オキナワンロック&コザガチ勢のコサイミキさんが10月13日付でNOTEにアップした「沖縄食堂エレジー」がその記事ですが、文中に「食堂の相次ぐ閉業の一方でコロナ禍でテイクアウトして食べられるからかお弁当屋さんは盛況と聞いた。」との記述があります。