人口の増加が沖縄社会に与えた影響を真面目に考えてみよう~復帰後編(上)

今回から、本土復帰前後の昭和45年(1970)から平成27年(2015)年までの人口増減が沖縄社会に与えた影響について説明します。昭和55年(1980)から年齢別人口調査のデータを沖縄県が公表しているので、その数値を参考に全人口における14歳から24歳の若者比率を算出しました。下図をご参照ください。

大日本帝国時代の明治16年(1883)から昭和5年(1930)までの本籍年齢別人口と比較すると、復帰後の沖縄県において若者人口比率が一定期間は高水準を保つも、平成にはいると一気に比率が減少していることが分かります。特に平成12年(2000)以降は激減と言っても過言ではありません。東京オリンピックが開催される2020年には10%を切る水準になると予測されます。

昭和55年(1980)から平成7年(1995)までの15年間は若者人口比率が15%台と高いレベルで推移しています。そうなると復帰前のように沖縄社会は物騒な雰囲気になってもおかしくありませんが、実はこの時代は社会全体が急速に安定化します。その理由の一つに挙げられるのが、当時の沖縄県政が保守政権(西銘順治知事)で公共事業を推進して社会インフラを急速に整備したことと、もう一つが昭和62年(1987)に海邦国体を開催したことです。

特に海邦国体は昭和45年(1970)前後のベビーブーム世代が主力になるため、実に絶妙のタイミングで開催されます。昭和56年(1981)から6年近く全県挙げて選手強化や施設の整備に取り組んできたのも、沖縄社会が安定化した大きな要因と考えて間違いありません。

若者人口比率が大きいにも関わらず沖縄社会が安定化した外的要因として、昭和60年(1986)から始まったバブル経済の影響も無視できません。当時の華やかな雰囲気はブログ主もよく覚えています。そして革新勢力が一気に冬の時代に突入したのも印象的でした。若者たちが反戦平和デモに没頭するより、より稼げる就職先の物色に力を入れていたのもある意味当然かと思われます。(ただしこの時期までのデモは県内のみで運動員を調達できました。)

アンダーグラウンドの動きでは、平成2年(1990)に3代目旭琉会の分裂による第六次暴力団抗争が始まります。この抗争は2年間続きましたが、その原因の一つとして沖縄旭琉会も3代目旭琉会も構成人員を充分確保できたことがあります。実際に分裂前の3代目旭琉会の構成員は1000名と言われています。昭和45年(1970)当時の人員が約750名ですから、25%も増えているのです。当時の若者人口の比率とは無関係ではありません。

*ちなみに現在の旭琉會の構成員は推定で450人です。

平成12年(2000)からブログ主がチェックした限りでは、若者人口の比率が始めて15%を切ります。その理由はおそらく大田知事2期目の不況と関連性があると思われます。当時は県内失業率が 8% を越えた影響から、県外への就職(あるいは季節労働等)で多くの若者が本土に渡った時期にも当ります。ただし県内景気が改善した21世紀においても小子化の流れは止まらず、平成27年(2015)になるとついに10%台の低水準にまで落ち込みます。近い将来本格的な人口減少時代が到来すること間違いありませんが、次回からは21世紀に入っての若者人口の減少が社会にどのような影響を与えたかを考察していきます。(続く)

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