「おもろさうし」から見た勝連の実力(三)

今回は古りうきう時代における勝連の繁栄の証として引用されるオモロについて深堀します。伊波普猷先生の『古琉球』の阿麻和利考によって有名になった「かつれんはなおにきやたとへる」から始まるオモロですが、実は伊波先生と鳥越憲三郎先生の解釈がだいぶ異なっています。

ブログ主はこれまで鳥越先生の解釈をベースに考察を進めてきましたが、今回は両者の解釈を比較しつつ、ブログ主なりに勝連の “実力” を推測します。まずは伊波先生の阿麻和利考から該当の部分を紹介します。なお読者の便を図って旧漢字は訂正し、必要に応じて句読点を追加しています。

(中略)思うに当時の諸按司は常に勝連按司の鼻息を伺っていたのであろう。而して百浦添(もんだすい)に会議の開かれるごとに阿麻和利が議長のような観を呈したのであろう。実に彼はオモロに所謂「按司の又の按司」であったのだ。読者もし勝連のおもろ双紙を紐解かば、思い半ばに過ぎることがあろう。

かつれんはなおにぎやたとへる

やまとのかまくらにたとへる

きむたかはなおにぎや

勝連は何にかまぁ譬えん、日本にての鎌倉に譬えん。あはれ勝れたる阿麻和利は何にかまぁ譬えんという程の意である。おもろ双紙中にはしばしばきやかまくら(京鎌倉)という言葉が出ているが、当時昔の京都と鎌倉の関係が沖縄の都鄙(とひ)に知れ渡っていた者と思われる。阿麻和利は実に勝連城を鎌倉幕府の如き地位に進めようとしたのであろう。否、その計画を実行しつつあったのである。読者も、もし首里を以て京都に勝連半島を以て三浦半島に比較したならばその位置及び歴史の酷似せるに驚くであろう。阿麻和利はまさに小なる頼朝になろうとしていたのである。(明治38年7月19日付琉球新報2面:阿麻和利考(六))

伊波先生の解釈で注目は「勝連」を勝連半島を含む広域な範囲で捉えている点です。ただし鳥越先生は「勝連」の範囲を判断しかねており、実はこの点が伊波先生と鳥越先生の解釈の相違点となります。鳥越先生の解釈は以下ご参照ください。

(一六ノ一八) 阿嘉の子がよくも又もが節

一 勝連は、何にか譬へる。大和の鎌倉に譬へる。

又 肝高は、何にか、(一節二行目「たとゑる」以下折返)

【解釈】①② 誇り高き勝連は、如何なるものになぞられられるかしら。日本の都の鎌倉になぞらえられる。

【説明】勝連という村名はなく、勝連間切南風原村にある城を勝連城という。そこで本歌の「勝連」は城を指すのか、それとも広く勝連間切を意味して用いたものか、その点が明らかでないが、勝連城を中心として或る拡がりをもたして用いたものであろう。

この勝連に比すべきものとして「大和の鎌倉」を例示しているが、オモロでは「日本」の表記は一例で、そのほかは「大和・山城」・「京・鎌倉」という対語形式で用いられている。本歌は十五世紀中ごろの勝連城を讃えたものと見てよく、足利義政の時代にあって、鎌倉はすでに都ではなかった。鎌倉は古い都であるが、日琉の交易の最も盛んであった室町時代に先行する古都として、「京」の対語として用いられたものであろう。

いかがでしょうか。ちなみにブログ主は鳥越先生の解釈を支持しますが、それらを踏まえ、巻八のあかのこ(阿嘉の老就)※のオモロをもチェックした結果、このオモロは勝連の繁栄を讃えたものでなく、勝連城の祭事の際に唱えられた「祭式オモロ」であると確信しました。次回にブログ主の考察を紹介します。

※阿嘉の老就(あかのおいつき)とは、りうきうの歴史において三線の元祖として名高い赤犬子(アカインコ)のことですが、ここでは首里に直属していた宮廷詩人の前提で論を進めます。