18世紀前半になるとPCの動作はまたまた機能不全の一歩手前に陥ります。羽地の爺さんがせっかく精魂こめてアップグレードを施してもやはり時代の変化には対応できなかったのです。そこで満を持して蔡温先生が登場してOSのアップグレードを敢行します。
*蔡温(さいおん:1682~1761):那覇久米村出身。1392年に明国より帰化した中国人の末裔。時の国王である尚敬の信任厚く、1728年(享保13)に三司官に任命されて琉球国の建て直しに尽力する。当事としては異例の長寿であることも注目。
蔡温先生が実施したアップデートをバージョン・ショウシン・サービスパック2と命名しましょう。それだけではなく先生は情熱を傾けてPCのメンテナンスも実行します。おかげさまでPCは小康状態を保ち当時のユーザーである尚敬くんをはじめ後のユーザーたちからも大絶賛されます*。
*大絶賛された理由のひとつは荒廃した社会インフラを整備したことと、もう一つは変化しつつあった琉球国内の社会秩序を従来の状態に戻すことに成功したからです。
ただしこの時実施したアップグレードがきっかけで、実はPCの復活の可能性は消滅してしまったのです。後はゆるやかに坂道を転がり落ちるように琉球国は衰退し、1853年(嘉永6)以降のペリー来航から1871年(明治3)の琉球藩設置の時代にはPCユーザーとそのスタッフの能力は目も当てられない程に低下してしまいます。
琉球・沖縄の歴史上でNo1と言っても過言ではない人気を誇る蔡温先生の業績はあまりにすごすぎて評価に戸惑うほどです。明治以降の通史を参照すると絶賛の記述が多いのも理解できます。ただし当事の王府の政策が琉球国の産業経済の発展の目を完全につぶして、その後100年以上にわたる政治・経済の衰退を招いたことは間違いないのです。ちなみに最大の功績は18世紀にはいって荒廃していた社会インフラ(特に森林資源と水資源)を整備したことです。
最大の失敗は農民たちの商工業への従事を厳禁したことです。士族階級を救済して当時の身分制度を維持することが最大の目的ですが、その結果
1.大名(王族、按司等)、士(士族)、百姓(農民)の階級が完全に固定されて商業に従事する階級の出現の目をことごとくつぶしてしまったこと。
2.移動の自由を極端なまでに制限したため、結果として各階級の間で連帯感が皆無の状況*になってしまったこと(つまり元々連帯感に乏しい状況に止めを刺してしまった)。
3.士族階級の商業活動を解禁するも、実際に商業に従事したのは女性たちであったこと。問題は士族階級でも女性が正規の学問を修徳する機会がなく文字が読めなかった*ことで、ついに社会に影響を及ぼす程の人材が出てこなかった*。
などの見逃すことのできない弊害が生じてしまったのです。この弊害によるマイナス面は琉球国の時代だけでなく、大日本帝国の時代の沖縄県でも無視できない程大きく最終的に解決したのは1945年(昭和20)のアメリカ軍の占領行政時代になってからなのです。
*階層間に緩やかな連帯感がないためお互いが自分たちのことしか考えません。政治を担当する大名も社会全体を俯瞰できません。おかげで幕末時の動乱時に当事の王府は全くといって言い程対応できない状況になります。
*琉球藩(1871~1879)の時代に来琉した日本人たちは当時の沖縄の女性が上流階級に至るまで字が読めないことを記述しています。大名や士族には正規の学問ルートが存在しましたが女性たちは修学する機会がありませんでした。
*商工業に従事する人材が輩出されないために結果として社会全体の資本の蓄積がほとんどなく、しかも人材が本当にいないため明治期には寄留商人に代表されるように本土商人たちに大規模商取引を独占されてしまいます。特産物である黒糖を本土市場に自由販売できるようになったのも何と1904年(明治37)になってからです。
蔡温の業績については「多少の瑕疵と失敗はあったが、大体において彼の政策は効果を挙げた。沖縄古今の政治家中傑出した人物というべきである」*の評価が一般的です。たしかに傑出した人物ですが「多少の瑕疵と失敗はあったが」の一言では済まされないほどの弊害を後世に残してしまったことは大いに反省しなければなりません(続く)。
*この評価は沖縄の歴史56_蔡温の実績(比嘉朝潮著)より抜粋。