さて、琉球に戻ってきた尚寧くんはPCユーザーとしての地位は確保されましたが、薩摩おいどんに配慮しながら操作せざるを得ない立場になります(下図参照)。
*本来であれば尚寧くんは管理者としてPC利用できる立場です。ただし1609年(慶長14)の薩摩入りで管理者権限を剥奪され、標準ユーザーとしてPCを操作せざるを得なくなります。御国許(おくにもと)とは薩摩藩のことをさし、管理者としてPCにアクセスできる権限を獲得するも、実際の操作は尚寧くんが担当します。
そうなると従来のOSであるバージョン・ショウシンでは対応できない状況が生じてしまうのです。年単位の貢租義務とそれに伴う土地制度の変更、首里あるいは那覇の急速な都市化*など尚真くんの時代とはPC内の環境が激変してしまったのです。当然従来のOSで操作をするとフリーズが多発します。その結果17世紀中盤にはPCは機能不全の一歩手前にまで陥ってしまいます
*17世紀前半は木綿織りや陶器の製造、醸造業など産業が勃興した時代で那覇や首里は慢性的な労働力不足の状態でした。
*農村は地割と呼ばれる独特の土地制度を本格運用して貢租を徴収する体制を整えますが、農村から都市への人口流出が止まらないため、結果農村の崩壊開始→貢租の徴収漏れ→財政悪化の負のスパイラルに突入してしまいます。
*農村の崩壊が始まったもうひとつの理由は1年1貢の制度が導入されたことにもあります。間切(地方の行政区分)や村を管理する役人たちが農民を無制限に使役するなど行政能力も極めて低いため、食えなくなった農民たちが都市へ移住するようになったのです。
そこで登場したのが羽地の爺さん*。もはや機械的トラブル一歩手前のPCの復旧に力を尽くします。羽地の爺さんが摂政として7年間必死でメンテナンスを行ったおかげでPCは小康を保ちます。このとき導入されたOSのアップグレードをバージョン・ショウシン・サービスバック1と名づけましょう。
*羽地朝秀(はねじ・ちょうしゅう:1617~1675):王族の子孫で1640年に羽地間切の総地頭となります。1650年(慶安3)に琉球初の通史である中山世鑑を編纂。1666年(寛文6)から1673年(寛文12)まで時の国王尚質の摂政として琉球国の建て直しに尽力します。
羽地の爺さんの理解者は当初は国王である尚質くんのみ、そのため薩摩おいどんを味方につけてアップグレードを敢行*します。まるで中日監督時代の落合博満氏のような立場ですが、リサイクル一歩手前の状態から小康状態を保つまでにPCを復旧させた手腕は高く評価できます。
*羽地朝秀の改革の目的は大まかに言うと①王府の財政再建、②疲弊した農村の建て直しの2点です。ここでは詳しく説明しませんが王府の宗教儀式を簡素化して経費節減を図ったことと農村疲れ(農民の疲弊)が起こらないように役人が農民を酷使しないように制度を刷新、あるいは開墾の奨励などの政策を敢行して王府の財政を一時的に改善することに成功します。
ただし残念なことに、羽地の爺さんの努力も空しく18世紀に入るとまたまたPCは機能不全の一歩手前の状態に追い込まれてしまいます。この後琉球・沖縄の歴史で人気ナンバー1と言っても過言ではない蔡温先生が登場してPCのメンテナンスとアップデートに挑むことになります(続く)。