以前にブログ主は「我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか」との記事を掲載しましたが、その際に喜舎場朝賢著『琉球見聞録』を参照しました。その中に明治8年(1875)8月21日付で琉球藩に在勤していた河原田盛美(かわらだ・もりはる)氏が、藩庁の官吏宛に提出した意見書が掲載されていて、同氏は琉球が日本の属藩であることを証するとして16か条を挙げています。
河原田氏は「抑モ清國ノ関係ヲ断タシムル者ハ日本ノ属藩ナレバナリ、日本属藩ノ證トスルモノ大略十六ケ條アリ」と前置きして、一つ一つ事例を挙げていきますが、15番目に「日本ノ國旗ヲ立ツ」と述べています。この記述によれば琉球藩の時代から日章旗を掲げていたことになりますが、では何時ごろから沖縄において日本の国旗を掲揚するようになったのでしょうか?
ブログ主が確認できた最も古い記録は、仲里譲著『琉球処分の全貌』の55ページ、「御国旗並律書下付ノ事」の記述における明治6年(1873)3月6日付けの外務省通達で、琉球五島(久米島、宮古、石垣、西表、与那国)に常時国旗を掲揚する令達を琉球藩庁が了承した件です。外務省通達(明治6年3月6日)と琉球藩の回答(明治6年4月14日)の全文を掲載しますのでご参照ください。
*(琉球は)海中の孤島、境界分明無之候テハ外国掠奪之憂モ難計候間、今般琉球藩ヘ御国旗大中七流御渡相成候条、日出ヨリ日没迄、久米、宮古、石垣、入表(西表)、与那国五島ノ庁ヘ可掲示、尤回ハ新調被相渡候得共、今後破裁ノ節ハ、其藩費ヲ以可致修繕、此旨相達候事。
明治六年三月六日 外務省
*当管内久米島ヲ始メ外四島ヘ可示掲御国旗大一流・中六流御書付添、御渡、正ニ落手御達ノ趣承知仕候也。
明治六年四月十四日 琉球藩 外務省六等出士 伊地知貞馨殿
仲里譲氏は「説明するまでもなく、国旗を下付され、それを常時掲揚するということは、国際的にも国内的にも、その国旗の下にある即ち、その国家の領域であり、統治下にあるという意味が示される。」と解説されていますが、おっしゃる通りで琉球藩の三司官をはじめ藩庁の官吏たちは何故あっさりと琉球五島への国旗掲揚を認めたのか、よくよく考えると摩訶不思議としか言い様がありません(国旗を掲揚することは日支両属体制を否定する意味にもなるから)。
ついでに明治六年四月十八日付で、琉球藩が伊地知貞馨氏に提出した誓約書も掲載します。
形勢一変、開明之今日ニ臨候テハ、各自活目有之百事煩悩ヲ去リ、易管ニ付朝旨遵奉、●藩之庶民ヲ致教育候様、御示諭之趣、致承知御尤ニ候深相心得、朝旨奉戴
永年ニ至リ違犯仕間敷、藩王ヘモ相達、此段御請申候也
明治六年四月十八日 浦添親方印、川平親方印、宜野湾親方印、伊江王子
上記誓約は大雑把に言えば「朝命は遵奉します。未来永劫違反はしません。」になりますが、2年後の明治8年(1875)年の御達書(清国との関係断絶等の朝命)は断固拒否していますので、当時の藩吏たちはやはり東アジアの情勢について無知極まりなかったのではと疑わざるを得ません。そしてなんでこんな誓約書に迂闊に署名したのかブログ主は意味不明としか思えませんし、こんな連中を琉球社会から排除した明治政府に対して「グッジョブ!」との感想しか持ち得ないのも気のせいでしょうか(終わり)。