今回の記事から、琉球藩の時代の連載を再開します。まだ公同会事件(1896~1897)のまとめ記事が残っているのですが、平行してブログ内にアップします。
その前に、以前当ブログ内にアップした琉球藩の時代の記事を改めて読み直して、いくらなんでもご先祖様のことをボロクソに書き過ぎじゃないのかと反省し、その後数多くの琉球・沖縄史や史料などを参照しました。そして出た結論が「もっとボロクソに書いていいいんじゃね」という……
やはり現時点のブログ主のレベルでは、どうしても幕末期および琉球藩時代の王府の所業は擁護できません。さりとてただボロクソに書くだけでは、実にうっとうしく、かつ暗い内容になってしまうため、現代社会にとって有益な教訓があるかを探りながら続・琉球藩の時代の記事を掲載します。
琉球藩から廃藩置県に至るまでの流れは、当時の琉球藩庁が天国から地獄に真っ逆さまに落ちていく様や、日本や清国、あるいはアメリカや英国などの列強も関係した実にスリリングな時代です。ただしブログ主が不思議に思うのは、1875年(明治8)に明治政府から清国との関係断絶を通告されて以来、4年に渉って粘りに粘った琉球藩庁側が、最後にはあっけなく琉球藩を廃されてしまい、沖縄県の設置を許してしまったことです。
言い換えると、支配者の交代が起こったにも関わらず、武力衝突はおろか、流血の惨事が起こっていないのです。尚巴志の三山統一、内間金丸の王位簒奪、慶長の役、そして沖縄戦に至るまでの支配者交代の歴史においては必ずと云っていい程流血の惨事が発生しているのですが、1879年(明治12)の廃藩置県は例外的にあっさりと終わっちゃった感が拭えません(もうひとつの例外は1972年(昭和47)の本土復帰です)。
しかもその事に対しての従来の歴史家の冷淡な態度はもっと理解できません。なぜ武力衝突、あるいは流血の惨事なしで政権交代が実現してしまったのか、この観点からブログ主が調子に乗りまくって続・琉球藩の時代の連載を再開します。(続く)