中部の考察

歴史の史料をチェックすると、その時代ごとの「区分け」があることに気が付きます。古りうきう時代の「北山・中山・南山」が代表例ですが、「おもろさうし」では首里を起点として「上」「下」との区分けがありましたし、現代でも「山原・中頭・島尻」という表記で区分けします。

興味深いことに昭和の沖縄には「中部」との区分けがありました。もちろん正式な行政用語ではありませんが、「中部工業(現美来工科)」や「中部農林」そして「中部商業」のように、現代でも普通に使われています。ただしこの「中部」の区分けが結構奥深くて、「中頭」ともちょっと違うことに気が付いたブログ主は、令和の青少年には「中部」はどのように認識されているのか纏めてみました。ニッチなネタが好きな読者のみなさん、ぜひご参照ください

まずは沖縄本島の(現代の本島民が想定する)中部を描いてみました。ただし厳密に区分けすると、

①浦添:中部と那覇との緩衝地帯なので中部に含め辛い

②宜野湾:中部そのもの。※昭和の時代の「中部のノリ」はだいたいが宜野湾かコザのフラーたちを指していた気がする。

③北谷:中部もちょっと威張り気味(笑)

④嘉手納:中部

⑤読谷:あそこはユンタン

⑥恩納:ここから山原(なぜか教育行政はいまだに中頭)

⑦うるま:中部。ただし具志川はガージュー。

⑧旧与那城・勝連:あそこは与勝

⑨沖縄市:旧コザ地区、美里、泡瀬は中部の中核

⑩中城・北中城:中部だけど、お前ら仲良くしろ。

⑪西原:中部

いかがでしょうか。つまり中部の南限は宜野湾と西原、北限はうるま市前原ぐらいかなって感じです。勿論異論は認めますので、現代沖縄の「区分け」について面白い情報があればぜひとも提供していただきたく、今回の記事を終えます。